八代六郎(読み)ヤシロ ロクロウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「八代六郎」の解説

八代 六郎
ヤシロ ロクロウ


肩書
海相,枢密顧問官

旧名・旧姓
旧姓=松山

生年月日
万延1年1月3日(1860年)

出生地
尾張国丹羽郡楽田村(愛知県)

学歴
海兵(第8期)〔明治14年〕卒 海大選科卒

経歴
明治元年水戸浪士・八代逸平の養子となる。愛知英語学校で学んだ後、9年上京し海軍兵学校に入学。18年少尉となり、日清戦争従軍、ロシア公使館付武官、和泉艦長を経て、日露戦争浅間艦長として日本海海戦に参加。40年少将、第1艦隊、第2艦隊各司令官、44年中将。海大校長、舞鶴鎮守府司令長官を経て、大正3年大隈内閣の海相。のち第2艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官となった。5年男爵、7年大将軍事参議官を経て、9年退役、14年枢密顧問官。

没年月日
昭和5年6月30日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「八代六郎」の解説

八代 六郎
ヤシロ ロクロウ

明治・大正期の海軍大将,男爵 海相;枢密顧問官。



生年
安政7年1月3日(1860年)

没年
昭和5(1930)年6月30日

出生地
尾張国丹羽郡楽田村(愛知県)

旧姓(旧名)
松山

学歴〔年〕
海兵(第8期)〔明治14年〕卒,海大選科卒

経歴
明治元年水戸浪士・八代逸平の養子となる。愛知英語学校で学んだ後、9年上京し海軍兵学校に入学。18年少尉となり、日清戦争従軍、ロシア公使館付武官、和泉艦長を経て、日露戦争に浅間艦長として日本海海戦に参加。40年少将、第1艦隊、第2艦隊各司令官、44年中将。海大校長、舞鶴鎮守府司令長官を経て、大正3年大隈内閣の海相。のち第2艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官となった。5年男爵、7年大将。軍事参議官を経て、9年退役、14年枢密顧問官。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「八代六郎」の解説

八代六郎

没年:昭和5.6.30(1930)
生年:万延1.1.3(1860.1.25)
明治大正期の海軍軍人。父松山庄七は尾張国丹羽郡楽田村(犬山市)の大庄屋。明治1(1868)年水戸浪士八代逸平の養子となった。6年愛知英語学校に入学(同窓に坪内逍遥,三宅雪嶺など)。9年県の選抜生となり上京,落第すれば侠客になる覚悟で海軍兵学校を受験,合格(8期)。日露戦争(1904~05)には「浅間」艦長として出征仁川沖海戦の前夜,海上にて尺八を奏した。また勲功による下賜金を戦死した部下の遺族に与えたりするなど,部下思いとして知られる。大正3(1914)年4月,軍政の経験がなかったが同郷の加藤高明懇請もあって第2次大隈重信内閣の海軍大臣となり,5月にシーメンス事件により辞職した首相山本権兵衛,海軍大臣斎藤実の予備役編入を断行して海軍の信頼回復に努め,一方で懸案の海軍費の拡張を議会に認めさせた。5年男爵,7年大将に進み軍事参議官となる。<参考文献>小笠原長生『侠将八代六郎』,鵜崎鷺城ほか「岡陸相と八代海相」(『中央公論』304号)

(岸本昌也)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「八代六郎」の解説

八代六郎 やしろ-ろくろう

1860-1930 明治-大正時代の軍人。
安政7年1月3日生まれ。海軍大学校長などをへて,大正3年第2次大隈(おおくま)内閣海相となり,シーメンス事件で辞職した首相山本権兵衛らを予備役に編入し,海軍の威信回復につとめた。7年海軍大将,軍事参議官。枢密顧問官。昭和5年6月30日死去。71歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。海軍兵学校卒。旧姓は松山。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「八代六郎」の解説

八代 六郎 (やしろ ろくろう)

生年月日:1860年1月3日
明治時代;大正時代の海軍軍人。大将;枢密顧問官
1930年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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