八太村
はたむら
[現在地名]一志町八太
片野村の西、初瀬表街道に沿う丘陵上の村で、南は小山村、北は波瀬川を越えて日置村に接する。村の西南中野山麓台地には白鳳時代の八太廃寺(斑光寺跡)があり、「和名抄」の八太郷の中心地であったと推定される。「万葉集」巻一に「十市皇女、伊勢神宮に参ゐ赴く時に、波多の横山の巌を見て」という吹
刀自の歌が載るが、この波多の横山は当地辺りとも考えられる。
中世には神宮神領が設定された。建久三年(一一九二)八月の二所大神宮神主神領子細注進状(神宮雑書)に、「八太御厨外 給主左中将家」とあり、「神鳳鈔」には、「八大御厨七十五丁、二十五石(十五石イ)」「外宮八大御薗四斗、雑用一石二斗」とある。
八太村
はだむら
現榎列下幡多・榎列上幡多一帯に比定される。「和名抄」所載の三原郡幡多郷の後身とみられる。貞応二年(一二二三)の淡路国大田文には三原郡の国領笶原保のうちに八太村とみえる。賀集八幡社(現南淡町)領百姓への河田三郎方による押妨を禁じた、応永四年(一三九七)六月一一日付のあ井帯刀宛某書状(護国寺文書)には「三吉跡八太の御料所」とみえ、同社料所であったとみられる。
八太村
はつたむら
[現在地名]松阪市八太町
上蛸路村の東にあり、東は下蛸路村に接する。「神鳳鈔」や「外宮神領目録」にみえる治田御厨が当村にあたるとされる。「神鳳鈔」には「外宮八田御薗」の記載もある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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