日本歴史地名大系 「初瀬表街道」の解説 初瀬表街道はせおもてかいどう 三重県:総論初瀬表街道難波(なにわ)(大坂)から大和の初瀬(現桜井市)を経て山田(現伊勢市)に至る道を伊勢側から初瀬街道という。初瀬から来て大和国宇陀(うだ)郡萩原(はぎはら)村(現榛原町)で二つに分れるが、東南に向って飼坂(かいさか)峠・櫃坂(ひつさか)峠(現一志郡美杉村)を越えて櫛田(くしだ)川ほとりに出る道を初瀬本街道というのに対し、東北に向って三本松(さんぼんまつ)(現奈良県室生村)を経て伊賀国に入り、名張(なばり)、阿保(あお)・伊勢地(いせじ)(現名賀郡青山町)を過ぎ、一志郡大(おお)村の二本木(にほんぎ)(現白山町)を通って、大仰(おおのき)で雲出(くもず)川を渡り、田尻(たじり)・八太(はた)(現一志町)を経て、三渡(みわたり)(六軒茶屋、現松阪市六軒町)で伊勢参宮街道に合流する道を初瀬表街道と称する。初瀬本街道が直線的ではあるが、険阻な山中を通るのに対して、この街道は北方へやや遠回りするが、山坂が少なく、歩行の容易さで親しまれ古くから最もよく利用されたと考えられ、単に初瀬街道という場合はこの街道をさす場合が多い。また峠の名をとって「青山(あおやま)越」とよばれることも多いし、二本木など小倭(おやまと)郷(現白山町)を通過するので「小倭道」とよばれたり、阿保を通るので「阿保越」とよばれることもあった。「五鈴遺響」はこの道を「伊賀街道」と称している。現在の近鉄大阪線は、ほぼこの街道に沿っている。なおこの街道の支道として、伊賀上野府から依那具(いなぐ)・才良(ざいりよう)(現上野市)を経て、阿保で合流する古い道があり、才良にはかつて宿駅があった(三国地志)。〔古代〕この道は古代に都のあった飛鳥(あすか)地方から伊勢神宮に至る道として、早くから開かれた。天武天皇は壬申の乱における伊勢神宮の加護に報いるため、即位するとすぐその翌年、娘の大来(伯)皇女を斎王として神宮に奉仕させた。皇女は泊瀬(はつせ)(現桜井市)で斎宮を設け、一年間精進潔斎したのち翌年一〇月伊勢神宮に向かった(日本書紀)。持統天皇は即位六年三月、伊賀を通って伊勢・志摩に行幸しているが、そのコースはこの時に随従したと思われる当麻真人麿の妻が作った和歌「わが背子は何処行くらむ奥つもの隠(なばり)の山を今日か越ゆらむ」(「万葉集」巻一)によって、名張を経由するこの道であったといわれている。やがて都が奈良に移ると、参宮道も少し手直しが行われる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by