朝日日本歴史人物事典 「八条院高倉」の解説
八条院高倉
鎌倉時代の歌人。安居院法印澄憲の娘。信西の孫に当たる。母は未詳とされてきたが,近年「聖衆来迎寺文書」の資料から,実は海恵と同様に澄憲と高松院との密事の結果生まれた子と推定される。安元2(1176)年の高松院崩御は,八条院高倉出産によるか。高松院の姉八条院は八条院高倉を藤原俊成に預け,御子左家を介して八条院の女房として出仕させたらしい。後鳥羽上皇に和歌を認められ,「春日社歌合」など新古今期の歌合にも出詠。建暦1(1211)年八条院崩御とともに出家,老年期には法華寺に隠棲しそこで死去したか。『新古今集』の7首をはじめ勅撰集に40首入集。<参考文献>田中貴子「八条院高倉の出生と出家」(『国文学攷』1988年6月号)
(田渕句美子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報