デジタル大辞泉
「澄憲」の意味・読み・例文・類語
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澄憲
ちょうけん
(1126?―1203)
平安末・鎌倉初期の天台宗唱導の祖として著名で、安居院(あぐい)流を開いた。藤原通憲(ふじわらのみちのり)(信西(しんぜい)入道)の七男で母は高階重仲(たかしなしげなか)(1069―1120)の女(むすめ)。出家後比叡山(ひえいざん)に登り天台学を修めた。1183年(寿永2)法印となったが、京都の一条の安居院(あぐい)に住み、妻帯し、説経をもって教化にあたった。優れた弁舌家であったことが『玉葉(ぎょくよう)』など諸書にみえる。唱導関係の著作に『澄憲作文(さくもん)集』『澄憲表白(ひょうびゃく)集』などがあり、仏典の注釈も多い。その伝流は子の聖覚(しょうがく)(1167―1235)、孫の隆承(?―1246)へと相承された。
[新間進一 2017年9月19日]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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澄憲【ちょうけん】
平安末期から鎌倉初期の天台宗の僧で,説法の名手として知られ,安居院流唱導の祖。少納言入道信西(藤原通憲)の七男。平治の乱に連座して下野国に流されたが,帰京後1179年には,祈雨の表白(ひょうびゃく)を読んで効験著しかった(《源平盛衰記》第3巻ほか)。浄土関係の注釈書のほか,《転法輪鈔》《言泉集(ごんせんしゅう)》《澄憲作文集》《澄憲表白集》など唱導資料を多く残している。
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澄憲 (ちょうけん)
生没年:?-1203(建仁3)
平安末~鎌倉初期の天台宗の僧。少納言入道信西(しんぜい)の子。比叡山で天台宗を学ぶ。平治の乱でいったん下野国に配流,のち法印・大僧都となる。1177年(治承1)天台座主明雲(みよううん)の伊豆配流に随伴し,一心三観の血脈を受ける。のち京都安居院(あぐい)に住して唱導につとめ〈四海大唱導一天名人也〉とうたわれた。1203年8月6日没。子聖覚・孫隆承らがあとをつぎ,澄憲は安居院流唱導の祖とされる。
執筆者:飯田 悠紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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澄憲
没年:建仁3.8.6(1203.9.12)
生年:大治1(1126)
平安末・鎌倉初期の天台宗の僧。安居院法印と号される。唱導の大家。父は政治家でかつ博学多才な藤原通憲。母は高階重仲の娘。檀那流珍兼の法門を受け東塔北谷竹林院に住み,後年,里房である京の安居院に住む。平治の乱(1159)に下野国に流されるがまもなく許され,宮中の最勝講や,後白河法皇を始め道俗に請われて多くの仏事に導師・講師として活躍する。『玉葉』に「説法優美」「説法珍重」,『尊卑分脈』に「四海大唱導一天名人也」と賞賛されるように,弁舌に長け,唱導を事とする。なかでも承安4(1174)年の最勝講における祈雨表白の功は,『源平盛衰記』『古事談』など諸書にみえて名高い。また『平家物語』長門本などには,南都炎上に際し「法滅の記」を著したとある。唱導は安居院流として子の聖覚に継がれる。著作は浄土教方面の仏典の注釈が多いが,唱導関係は『澄憲作文集』『澄憲表白集』『言泉集』などに収められている。<参考文献>『山岸徳平著作集』1巻
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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澄憲
ちょうけん
[生]大治1(1126)
[没]建仁3(1203).8.6. 京都
鎌倉時代初期の僧。藤原通憲 (信西) の子で,出家して延暦寺の僧となった。平治の乱に下野国に流されたが,のちに承安4 (1174) 年に雨ごいを行なって大僧都に任じられた。明雲から天台の秘法である一心三観の血脈を授けられ,後年安居院 (あぐい) に退去して説法をもって道俗を教化。説法の大家で天台唱導の祖と称され,子孫に伝えられていった。浄土方面の著述が多いが,説経の草稿ともいうべき『言泉集』や『澄憲作文集』などは有名で,当時の僧侶の表白の雛型として貴重。法然の弟子で,親鸞が尊敬した聖覚の父である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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澄憲 ちょうけん
1126-1203 平安後期-鎌倉時代の僧。
大治(だいじ)元年生まれ。藤原通憲(みちのり)の子。天台宗。比叡(ひえい)山でまなぶ。平治(へいじ)の乱で下野(しもつけ)(栃木県)へ流される。承安(じょうあん)4年祈雨の功で権(ごんの)大僧都,のち法印。京都の安居院(あぐい)にすみ,唱導(説法)で教化につとめた。安居院流唱導の祖。建仁(けんにん)3年8月6日死去。78歳。通称は安居院法印。著作に「言泉集」「澄憲作文集」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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世界大百科事典(旧版)内の澄憲の言及
【安居院】より
…もと比叡山竹林院の里坊。その開基[澄憲]を始祖とする説経師が根拠地としたので,この系統の説経を安居院流という。澄憲は比叡山で檀那流の天台教学を修め,学識と弁舌の才で知られ,大僧都,法印に叙せられたが安居院に退去し,華麗な表現の表白諷誦文(ひようびやくふじゆもん)と機知に富んだ譬喩因縁譚(ひゆいんねんたん)を中心とした説経で人々の教化にあたり名声を博した。…
【唱導】より
…唱導の名手とつたえられる慶意は〈先泣の誉〉があったというので,唱導の名手はみずからも泣き聴衆も泣かせたことをあらわしている。唱導が注目をあつめるのは,平安末期から鎌倉初期にかけて名手[澄憲](ちようけん)法印が活動したためで,その子孫は安居院(あぐい)流という唱導の一派をなした。これは澄憲とその長子聖覚(せいかく)がその父祖藤原通憲(みちのり)(信西)の血統をうけて学者であり,演説の天才だったことによる。…
【節談説教】より
…ことばに[節](ふし)(抑揚)をつけ,洗練された美声とジェスチャー(身ぶり)をもって演技的表出をとりながら聴衆の感覚に訴える詩的・劇的な情念の[説教]である。仏教伝来のときから行われたと推定されるが,天台宗の[澄憲](ちようけん)(?‐1203)・聖覚(しようがく)(1167‐1235)父子が樹立した安居院(あぐい)流([安居院])と寛元(1243‐47)のころ定円が創始した三井寺(みいでら)派のことが《元亨(げんこう)釈書》に見える。安居院流は浄土宗と真宗に入り,とくに真宗で節談説教が興隆した。…
※「澄憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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