八箇所(読み)はつかしよ

日本歴史地名大系 「八箇所」の解説

八箇所
はつかしよ

ふる川以東、深野ふこの(現大東市)西岸に至る間にあった諸庄園の総称。八ヶ所とも書く。室町時代、とくに京都北野社領としてまとまってからよばれた。応永一五年(一四〇八)九月一一日の斯波満種寄進状(前田家所蔵文書)に「慈聖院領河内国八ケ所内島頭庄領家職事」とみえ、京都南禅寺慈聖院に八ヶ所内島頭しまがしら庄の領家職が寄進されている。のち、時期や経緯は不詳であるが八ヶ所は京都北野社領となり、長禄二年(一四五八)四月一六日、将軍足利義政が北野社領諸所を還付安堵した御判御教書(筑波大学蔵北野神社文書)に「河内国八箇」とある。また延徳三年(一四九一)五月日の北野社領諸国所々目録(「北野社家日記」同月六日条)に「一、河内国八ケ所日供料所」とみえ、長享三年(一四八九)七月にも庄内住人の吉丸なる人物が初穂一〇疋を社家に献じているが(同書同月二五日条)、年貢納入の記録もなく、おそらくは文明九年(一四七七)秋以降、畠山義就によって押領されていたとみられる。

明応二年(一四九三)初め、将軍足利義稙(義材)による義就の子基家討伐の河内出陣が決定的となったため、北野社別当寺松梅院は当所の回復を策し幕府に働きかけた。一方幕府奉公衆四番頭の畠山政近は八箇所の代官職を請負うことを望み(同書同年二月六日・同一一日条)直務支配を望む社家と対立した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android