門真市(読み)カドマシ

デジタル大辞泉 「門真市」の意味・読み・例文・類語

かどま‐し【門真市】

門真

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日本歴史地名大系 「門真市」の解説

門真市
かどまし

面積:一二・二一平方キロ

河内の南部、淀川と寝屋川の中間に位置する。北から東は寝屋川市、東から南は大東だいとう市、南から西は大阪市鶴見区、西から北は守口もりぐち市。もと淀川の氾濫原で標高一―二メートルの低湿地。寝屋川市西部低湿地に源をもち、悪水井路としての機能をもつふる川が市域中央部を南流する。二十箇にじゆうか用水路や淀川筋から取水する用水井路と、大庭大久保おおばおおくぼ悪水井路および古川に落ちる小悪水井路が縦横に通る。江戸時代古川右岸堤は京・大坂に通ずる道であり、北部を東西に清滝きよたき街道が通る。両道の交差する古川ふるかわ橋西詰は水陸交通の要地であった。現在は国道一六三号が清滝街道の南方を東西に通り、大阪市中と奈良県を結んでいる。江戸時代には門真を冠した村が現市域に五村あり、明治二二年(一八八九)成立の門真村、市制施行以前の門真町が当地域の中心であった。

〔原始〕

縄文時代前期(約七千―六千年前)、市域は海面下にあった。弥生時代後期から古墳時代前期(約一千八〇〇―一千六〇〇年前)には、流入する淀川諸流ほかの堆積作用によって水域が減少し、河内低地は河内湖とよばれる淡水湖になった。市域の弥生時代の遺跡は多くないが、古川堤に近い野口のぐちで小型の銅鐸が三個出土している。弥生時代の河内湖の北岸は、前期では当市域付近では銅鐸出土地点近くであり、中期では灰塚はいづか諸福もろふく(現大東市)辺りと考えられている。弥生中期、人々は東部の丘陵地から下り、低地での営みを始めたと推測される。当市域の地下五―七メートル層に貝殻層のあることは従来報告されていたが、昭和五〇年(一九七五)京阪電鉄大和田おおわだ駅高架工事に際してカキ類など海の貝殻が発見された。

〔古代〕

低湿地を水田化する本格的な営みは当市域では五世紀からであったと思われる。淀川は現在の流路のほかに、現在の寝屋川と古川の川筋を通って河内湖に流入していた。「日本書紀」仁徳天皇一一年条の茨田まんだ堤の築造は、位置には諸説があり一定しないが、地元の理解では、西は現淀川筋、東は現古川筋に沿い、南は寝屋川下流に沿う道筋をたどり、西方は摂河の境をなすつるぎ堤に相当する地域を囲んだものとされている。市域西半分はその東部の一部にあたるわけで、古川に近い現宮野みやの町に「伝茨田堤」遺跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「門真市」の意味・わかりやすい解説

門真〔市〕
かどま

大阪府中部の市。 1956年門真町が四宮 (しのみや) ,二島 (ふたじま) ,大和田3村を編入し,63年市制。淀川左岸近くの低湿帯に位置し,かつてはハス田が多く,有名なレンコン出荷地であった。 1910年京阪電気鉄道開通。 33年松下電器の進出以来,松下およびその関連工場が集中,現在では神戸電機の工場なども進出して,日本最大の家庭電器工業都市となった。近畿自動車道が通りインターチェンジがある。市域南西にある薫蓋クスは天然記念物。面積 12.30km2。人口 11万9764(2020)。

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