出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…1276年(建治2)日蓮の旧師,安房清澄寺道善房死去のおりには,日蓮の書いた《報恩抄》をその墓前で代読した。82年(弘安5)日蓮が本弟子として指定した6人(六老僧)のうちにも加えられている。日蓮没後,その廟所である甲斐身延に登り,日興(につこう)とともに廟所に給仕し,学頭として門下の教育に当たったが,日興が日蓮在世以来の信奉者波木井(はきい)氏の信仰のあり方を批判して88年(正応1)身延を離山した後,身延の経営に当たった。…
…駿河の天台寺院四十九院の住僧であったが,同寺の日興(につこう)に教化されて,日蓮の弟子となり,甲斐公,蓮華阿闍梨(あじやり)と称した。1282年(弘安5)日蓮が本弟子6人(六老僧)を指定したおり,その一人に加えられたが,最初の師日興は,日持を自分に背いたと非難している。のち駿河を離れたらしく,88年(正応1)日蓮の七年忌に,日蓮の肖像を造立して日浄とともに願主として武蔵池上に安置しているところから,このころ武蔵・相模地方にいたと考えられる。…
…日蓮在世中,原初的教団が形成されたが,その教団的展開は鎌倉時代末期からである。1282年(弘安5)日蓮は日昭,日朗(にちろう),日興(につこう),日向(にこう),日頂,日持(にちじ)の本弟子6人(六老僧)を指定,このうち日昭が浜(はま)門流,日朗が比企谷(ひきがやつ)門流,日興が富士門流,日向が身延門流を形成,これらに日蓮没後僧となった富木常忍(ときじようにん)(日常)の中山門流が加わる。中世日蓮教団の実体はこの門流であった。…
…1271年(文永8)の日蓮とその門弟への弾圧のおりには逮捕禁錮された。82年(弘安5)日蓮は本弟子として6人(六老僧)を指定したが,日朗もその一人に加えられた。日蓮の信奉者であった武蔵池上の池上氏と親しく,日蓮は池上氏の館で没したが,この地にやがて本門寺が創建され,日朗はこれを主管して,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺とともに,東国に師の教えを広める拠点とした。…
…1279年(弘安2)富士郡熱原(あつはら)において,日興の弟子日秀,日弁を信奉する農民が弾圧された熱原法難のときにも,日蓮の指示を受けながらこれに対処した。82年日蓮が本弟子6人(六老僧)を指定したときもその一人に加えられるほどの高弟であった。同年日蓮が示寂して甲斐身延に廟所が置かれ,弟子たちによる廟所給仕の輪番が定められたが,翌々年にはこれが行われなくなったので,日興は身延に在住するようになり,日向(にこう)とともに身延の経営に当たった。…
※「六老僧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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