鎌倉時代の僧。日蓮宗の開祖。
安房(あわ)国長狭(ながさ)郡東条郷片海(かたうみ)(千葉県鴨川(かもがわ)市小湊)の地で、貞応(じょうおう)元年2月16日に生まれた。出自については、三国氏、貫名(ぬきな)氏など諸説があるが、有力漁民の子であろうというほかまったく不明である。幼年期を海浜の村で送ったのち、12歳のときにほど近い清澄山(きよすみやま)の清澄寺(せいちょうじ)に入り、住僧の道善房(どうぜんぼう)(?―1276)を師として修学に励む。当時の清澄寺は、天台宗の法華経(ほけきょう)信仰に、浄土教・密教をあわせた有力な山岳寺院で、僧侶(そうりょ)の往来も激しかった。やがて出家して是聖房蓮長(ぜしょうぼうれんちょう)と称し、本尊の虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に智者(ちしゃ)としての大成を祈願したが、生死の問題を解決するわけにはいかなかった。鎌倉幕府の体制が質的な面において問い直され始めたという社会の風潮が、このような意識を抱かせ始めたのであろう。やがてこの疑いを晴らすことを目的に、清澄を去り比叡山(ひえいざん)遊学の旅に上る。比叡山を拠点としながら、京都・奈良の諸大寺を訪れ、さらに高野山(こうやさん)、四天王寺に足を伸ばして修学したが、その目に映ったのは浄土教の隆盛である。この現象を天台宗の正統である法華経信仰の衰退ととらえ、これを復興することによって現世の平安を獲得することを誓う。
[中尾 尭 2017年9月19日]
ふたたび清澄寺に帰り、南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)と初めて唱え、『法華経』の伝道を宣言した。1253年(建長5)4月28日のことで、この日を立教開宗の日として記念している。蓮長を日蓮と改めたのも、このころである。ところが、日蓮の主張は『法華経』の信仰を主張する反面、浄土教の信仰を強く拒否するものであったから、日蓮はついに清澄山を退出することとなる。しばらく房総(千葉県)の天台宗勢力を頼りながら伝道を続け、下総(しもうさ)国の守護千葉介頼胤(よりたね)(1239―1275)に連なる武士たちの間に信者を獲得した。富木常忍(ときじょうにん)(1216―1299)、大田乗明(おおたじょうみょう)(1222―1283)、曽谷教信(そやきょうしん)(1224―1291)らで、終生その信仰を守った。この後、遅くとも1257年(正嘉1)の初めころまでに、日蓮は鎌倉へ進出して松葉谷(まつばがやつ)に草庵(そうあん)を構えて、伝道活動を展開した。ところがその年8月に起こった大地震は激しく、鎌倉は壊滅状態に陥る。そのうえ洪水、干魃(かんばつ)、疫病、飢饉(ききん)などの天災が続出した。日蓮はこのように不安な状態から脱出する方法を、宗教者として模索し始める。浄土教の信仰を捨てて法華経の信仰になりきることによってのみ、現実の世界は仏国土になることができるというのが、その結論である。いま法然(ほうねん)(源空(げんくう))の説く浄土教を禁圧して『法華経』に帰依(きえ)しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、為政者の宗教責任を問う『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を著した。日蓮はこの書を、前執権(しっけん)北条時頼(ほうじょうときより)に呈上し、『法華経』の信仰に基づく善政を施すことによって災難の克服を進言する。1260年(文応1)7月16日のことである。
[中尾 尭 2017年9月19日]
日蓮のこのような主張に反発した浄土教の信者たちは、1260年8月27日の夜に大挙して松葉谷の草庵を焼打ちした(松葉谷法難)。危うく難を逃れた日蓮は、下総に移って事が静まるのを待ち、翌1261年ふたたび鎌倉に進出する。ところが5月12日にまたもや捕らえられて、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に流された(伊豆法難)。ここでは伊東八郎左衛門のもとに預けられ、その病を祈って快癒させ、海中から得た立像の釈尊(しゃくそん)を贈られ、これを生涯の随身仏とした。1263年(弘長3)に赦免されて鎌倉に帰って伝道活動を再開する。その翌年の1264年(文永1)11月11日、故郷を訪れていた日蓮を、かねてから浄土教の法敵とねらっていた東条景信(とうじょうかげのぶ)(生没年不詳)が、東条郷松原大路に待ち伏せして襲撃した。激闘のすえに幾人かの死傷者を出し、日蓮自身も眉間(みけん)に刀傷を負った(小松原法難)。ふたたび鎌倉に赴いて伝道していたところ、1268年閏(うるう)正月に蒙古(もうこ)の牒状(ちょうじょう)が幕府へ届いた。それは元(げん)朝への臣従を求めたもので、これを拒否するならば武力による侵攻を被ることは覚悟しなくてはならない。日蓮はこれをもって『立正安国論』の予言が的中したと主張し、『法華経』の信仰を盛んに唱えた。やがて蒙古との関係がさらに悪化すると、幕府は侵攻軍との徹底的な防衛戦を決意し、全国的な臨戦体制を敷いた。このような状況のなかで、予言の的中と法華経信仰を叫ぶ日蓮は、1271年9月12日に捕らえられ、片瀬の竜口(たつのくち)刑場に引かれて斬首(ざんしゅ)されようとした。ところが奇跡が起こって果たされず、佐渡流罪の途に上る(竜口法難)。鎌倉にいた弟子たちも多く捕らえられ、信者のなかにも信仰を捨てる者が続出して、教団は重大な危機にみまわれる。日蓮は相模(さがみ)国依智(えち)(神奈川県厚木市)の本間氏の屋敷にとどめられたのち冬の信濃(しなの)路を越えて寺泊(てらどまり)に出、佐渡に渡った。国中(くになか)平野の一隅にある塚原の三昧(さんまい)堂に置かれた日蓮は、雪中の寒さと飢えに死を覚悟しながら『開目抄』を著す。やがて一谷(いちのさわ)に移され、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を著し、本尊と崇(あが)めるべき大曼荼羅(だいまんだら)本尊を書き示した。1274年には異例ともいうべき流罪の赦免を得て鎌倉の地に帰るが、その主張がいれられないとみて、甲斐(かい)国身延(みのぶ)山(山梨県身延町)へ隠栖(いんせい)し、弟子や信者の信仰指導にあたる。各地に住む信者たちは、供養の品とともに信仰の指導を求めてくる。日蓮は、書状や曼荼羅本尊を弟子たちに届けさせて、その要請にこたえるのが常であった。故人の遺骨を抱いてはるばる身延を訪れ、山中に納骨する者も現れた。領主から信者に対する弾圧も激しくなったので、その対応も深刻に考えなくてはならない。山中に隠栖生活を送る日蓮は、しばしば下痢の病に伏したが、けっして心の休まる暇はなかった。なかでも1279年(弘安2)9月に起こった熱原(あつはら)法難は、駿河(するが)国富士郡熱原(静岡県富士市)の百姓たちが殉教したほどの深刻な事件であった。
[中尾 尭 2017年9月19日]
一方、日蓮が予言した蒙古の襲来は、1274年10月に現実のものとなったが、大暴風雨によって船が覆ったので、かろうじて事なきを得た。ところが1281年の夏にふたたび博多(はかた)に来寇(らいこう)したが、武士の果敢な戦いと台風の襲来によって、難を逃れることができた。その年の11月には、領主の波木井実長(はきいさねなが)(1222―1297)が10間四面の大堂をはじめとする諸堂を建てて寄進した。身延山久遠寺(くおんじ)の開創である。ところが翌年の1282年になると日蓮の病は進み、秋には立つのも困難なほどになった。このため、故郷を訪ねて常陸(ひたち)(茨城県)の湯に入ろうと、身延山を出て東方に向かった。けれども9月19日、武蔵(むさし)国千束(せんぞく)郡(東京都大田区池上(いけがみ))にある池上宗仲(むねなか)(生没年不詳)の屋敷に至ると、ふたたび立つことができなくなった。死の近いことを知った日蓮は、弟子や信者に『立正安国論』を講じ、教団の中心となる弟子6人(六老僧。日昭(にっしょう)、日朗(にちろう)、日興(にっこう)、日向(にこう)、日頂(にっちょう)、日持(にちじ))を定める。やがて10月13日辰(たつ)の刻(午前8時ころ)、波瀾(はらん)に富んだ一生を終えた。遺骸(いがい)は池上の地で火葬にし、遺骨は身延山に移されて墓塔が営まれ、弟子たちが月番でこれを守ることとなった。
[中尾 尭 2017年9月19日]
『立正大学日蓮教学研究所編『日蓮聖人遺文辞典 歴史編』(1952~1959・身延山久遠寺)』▽『高木豊著『日蓮――その行動と思想』(1970・評論社/増補改訂版・2002・太田出版)』▽『川添昭二著『日蓮――その思想・行動と蒙古襲来』(1971・清水書院)』▽『田村芳朗著『日蓮――殉教の如来使』(1975・日本放送出版協会/再刊・2015・吉川弘文館)』
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(藤井学)
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1222~82.10.13
鎌倉時代に法華(ほっけ)宗(日蓮宗)を開いた僧。字は蓮長。安房国小湊の海縁村落の「海人の子」として誕生。12歳で故郷の天台寺院清澄寺にのぼり,16歳のとき,「日本第一の智者」になるべく出家して是聖房蓮長と名のる。以後,鎌倉・比叡山・南都・高野山などに修学した結果,仏法の真髄は「法華経」にあると悟って,1253年(建長5)法華宗を開示。念仏は無間地獄,禅は天魔の所為,律は国賊,真言宗は亡国とした「四箇(しか)格言」に示されるように,徹底した他宗批判を行った。「法華経」の採用を求め,60年(文応元)幕府へ「立正安国論」を上呈。元寇を目前にした予言的言動により一定の信者を得たが,幕府からはつねに弾圧され,波瀾のなかに身をおいた。71年(文永8)の佐渡流罪と,その後の身延入山を通して仏使としての自覚を強める一方,現世と来世を超越した「法華経」の世界を思索した。「法華経の行者日蓮」の残した思想と行動は,本弟子6人(六老)に継承された。大正期に立正大師の諡号が贈られた。著書「開目鈔」「観心本尊鈔」。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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