鎌倉時代の日蓮(にちれん)宗の僧。日蓮六老僧の第二位。筑後房(ちくごぼう)、筑後殿とよばれ、大国阿闍梨(だいこくあじゃり)と称される。下総(しもうさ)(千葉県)能手(ので)の人。叔父日昭の縁で1254年(建長6)入門、以後師のもとを離れないで給仕し、日蓮佐渡(さど)配流のときは鎌倉長谷(はせ)の土牢(つちろう)(いまの光則(こうそく)寺)に投獄された。師孝第一と称される。日蓮身延(みのぶ)入山後は長老の日昭とともに鎌倉にとどまって松葉谷(まつばがやつ)の草庵(そうあん)を管掌し、また鎌倉比企谷(ひきがやつ)に妙本寺、武蔵(むさし)国(東京都)池上に本門寺を創立した。また、平賀(ひらが)(千葉県松戸市)の本土(ほんど)寺の開山に迎えられたが、自らは行かず、弟子の日伝を赴かせた。弟子の教育に努めて多くの人材(朗門の九鳳(くほう))を輩出したが、なかでも日像(にちぞう)は日蓮門下として初めて京都へ進出した。教団の護持、発展に尽くした功績は六老中第一。『五時系図』『玄旨御本尊添状(げんしごほんぞんそえじょう)』などの著作がある。
[浅井円道 2017年9月19日]
鎌倉時代の日蓮宗の僧。日蓮の直弟。下総国野手(千葉県)に生まれ,平賀氏の出身と伝える。1254年(建長6)10歳で日蓮の弟子となり,筑後房,のちに大国阿闍梨(あじやり)と称した。1271年(文永8)の日蓮とその門弟への弾圧のおりには逮捕禁錮された。82年(弘安5)日蓮は本弟子として6人(六老僧)を指定したが,日朗もその一人に加えられた。日蓮の信奉者であった武蔵池上の池上氏と親しく,日蓮は池上氏の館で没したが,この地にやがて本門寺が創建され,日朗はこれを主管して,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺とともに,東国に師の教えを広める拠点とした。弟子の育成にも努め,人材を輩出させた。とりわけ日像(にちぞう),日伝(典)をはじめとする9人の優れた弟子があり,これを朗門の九鳳,九老僧とも呼んだ。日像は京都に弘通(ぐづう)して,京都日蓮宗の基礎を築き,日伝は下総平賀に本土寺をはじめた。日朗の系統を日朗門流,比企谷門流,のちに池上門流とも呼び,妙本寺,本門寺,本土寺の3寺はその拠点となっている。
執筆者:高木 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(佐藤弘夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…おそらく,池上氏の館内にあった法華堂を,日蓮示寂の場として寺院化していったものと考えられる。日蓮の直弟日朗も池上氏と親しく,日蓮の七年忌のころには別当と称しているところからすれば,この堂宇の主管者であったであろう。一方,日朗は,鎌倉比企谷(ひきがやつ)の房舎を寺院化した長興山妙本寺に在住,これを弘通(ぐつう)と門弟育成の拠点としたので,本門・妙本両寺を主管したことになり,日朗以後も両寺一貫首(かんず)(住持)制がとられて近世にいたる。…
※「日朗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新