安里村
あさとうむら
[現在地名]那覇市安里・安里一―三丁目・おもろまち一丁目・大道・松川一丁目・三原一―三丁目
アサトゥと発音する。銘苅村・真嘉比村の南に位置し、西は泊村、南は安里川を境に牧志村、東は松川村に接する。一帯は天久台地の南東面中腹で、小字安里原に集落が形成されていた。「おもろさうし」巻一五の一に「一 あさとおきて おやみかま(安里掟であるオヤミカマ〔人名〕)/かまゑ つむ しよりおやくに(貢を積む首里御国)」とある。巻一五の「うらそへ・きたたん・よんたむざ」のオモロで、安里川を境に北は浦添間切に属していた。のち真和志間切所属。
当村は泊村に接していることから「脇泊」とも称された(大島筆記)。成化年間(一四六五―八七)泊村の住人毛興文は安里橋の東で仙人に会い、その言によりこの地を邸宅とした(のちの崇元寺)。また尚円王即位に際して安里地頭職を与えられ、大安里大親清信と名乗った(「球陽」尚円王附条)。康熙二年(一六六三)祖姓五世良資、同五年孫姓五世嗣繁がそれぞれ安里地頭職を与えられ(祖姓小谷家家譜・孫姓平田家家譜)、同五一年には毛姓六世安好が安里地頭職を与えられ、代々この系統が地頭職を勤めた(毛姓安里家家譜)。
安里村
あはとうむら
北東は玻名城村、南西は仲座村、南は太平洋に臨む。集落は整然と区画された碁盤割で、北西が高く、南東が低い緩やかな斜面に立地する。アハトゥ村とよぶ。平敷屋朝敏作と伝える擬古文物語「万歳」に「中ごろ具志頭の太守の御おとうと、あさとのあんじのみ子に、しろたらふがねとて十六ばかりなる、いまそかりけり、御手きよらに作文いみじく、殊にことふえは清はらのとしかげ、さごろもの大将のいにしへにもおとらず、その妙を得給へり、御かたちは玉をきざめるやうにて光りかがやけば、わかき女のめでまどはぬはなし」とあって、白樽は美しく才ある男だが、女に興味をもつ様子がない。ある日万歳が門付に来て、あなたにふさわしい娘は勝連(現勝連町)の浜崎の浜川殿の姫君であると告げる。そこで白樽はあこがれて勝連に赴くと惜しくも婚約が成立したばかりで、白樽は絶望して海に身を投げるが、信仰している阿弥陀仏に助けられて姫君と結婚するというものである。
安里村
あさとうむら
[現在地名]中城村安里・北上原
当間村の南にあり、東は中城湾に面する。アサトゥとよばれる。絵図郷村帳に安里村とある。琉球国高究帳によれば高頭一三四石余、うち田一〇七石余・畠二六石余。脇地頭の任職は家譜類や「琉球藩雑記」などで確認できないが、これは当村が夫地頭の
村であったことによる(「琉球国由来記」など)。村内にはコバウノ嶽・コバウノ小嶽、神社(安里ノ寺)、里主所之殿・里主所火神の拝所があり、神社を除き屋宜ノロが管掌した(琉球国由来記)。一八八〇年(明治一三年)の役俸調書では地頭代安里親雲上の役俸は米一七石余・雑石三斗余、首里大屋子安里筑登之の役俸は米三石余・雑石二石余。
安里村
あさとうむら
[現在地名]糸満市糸洲
糸洲村の西に位置し、同村と小波蔵村に挟まれる。村の背後を東西に走る丘陵には安里グスクがあり、その南側に集落がある。アサトゥ村とよぶ。絵図郷村帳や琉球国高究帳には記載がなく、「琉球国由来記」に真壁間切安里村とみえる。絵図郷村帳に記された島尻大里間切神里村は享保二一年(一七三六)には「当時無之」とあるが、安里村の住民の名字に神里があるので、間切境変更のときに糸洲村や小波蔵村とともに真壁間切に編入され、何らかの理由で安里村と改称したと思われる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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