日本歴史地名大系 「内瀬村」の解説 内瀬村ないぜむら 大阪府:茨木市内瀬村[現在地名]茨木市大池(おおいけ)一―二丁目・水尾(みずお)一―四丁目・玉櫛(たまくし)二丁目・並木(なみき)町・玉瀬(たませ)町・若園(わかその)町・真砂(まさご)二丁目水尾村の東にあり、南部は低湿地。元禄郷帳に「水尾内瀬村」とみえ、江戸時代中頃まで水尾村の小村であった(→水尾村)。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図にみえる内瀬村・浄土寺(じようどじ)村にあたると推定される。水尾村からの分村後、村高四一六石余(享保二〇年摂河泉石高調)のうち四一〇石余は延享三年(一七四六)から三卿の田安領、残り五石余は天保八年(一八三七)までには高槻藩領となり(「郡秘録」三嶋家文書)、幕末に至った。 内瀬村ないぜむら 三重県:度会郡南勢町内瀬村[現在地名]南勢町内瀬船越(ふなこし)村の西方、伊勢路(いせじ)村の東、標高二〇七メートルの小山の南西麓、南は海崖に面する五(ご)ヶ所(しよ)湾最奥部の伊勢路川河口にできた集落。「神鳳鈔」に「奈井瀬御薗」とある故地。永仁五年(一二九七)の仮殿記紙背文書(神宮文庫蔵)には「内瀬」「内瀬御薗」「内井瀬村」とも記す。法楽寺文書紛失記(京都市田中忠三郎氏蔵文書)の康永三年(一三四四)八月の寺領目録に「志摩国七段内 英虞郡奈井瀬一段」とある「英虞郡奈井瀬」も当地に比定される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報