日本歴史地名大系 「水尾村」の解説
水尾村
みずおむら
「続日本紀」宝亀三年(七七二)一二月二五日条に「幸山背国水雄岡」、続いて延暦四年(七八五)九月八日条に「行幸水雄岡遊猟」とみえる。古くは丹波国桑田郡に属したとされるが、この宝亀三年条には山背(城)国と記されている。更に「三代実録」元慶四年(八八〇)一二月四日条には、清和院が「自勝尾山、帰於山城国海印寺、俄而入丹波国水尾山、定為終焉之地」としたことを記す。後世、清和天皇を水尾帝と称する。また「宇津保物語」の「あて宮」の巻には、登場人物の一人、源少将仲頼が出家して水尾にこもり修行にあけくれているところを、友人たちが「花摘みがてら水尾におはしたり」と訪問している。「夫木抄」には
の一首をおさめる。
中世及び江戸初期の状況については明らかでないが、明暦四年(一六五八)頃は村内部が上・西・辻・下の四町の小字に分れ、地頭は並河三郎左衛門で、その取米高は九五石七斗五升五合であった(「名寄帳」松尾家文書)。松尾家の「庄屋記録」(明和三年―天保七年)によると、その後、宝永年中(一七〇四―一一)に領主は交代して丹羽市郎兵衛(奉行の記載あるも亀岡藩か)となり、その後、三雲施薬院領となって、村高は一一〇石九斗八升九合八勺に改められ、山林は柴税として五厘把、七千二〇〇把を京都代官の小堀氏に上納したと記す。
水尾村
みずおむら
- 大阪府:茨木市
- 水尾村
水尾村
みずおむら
水尾村
みずおむら
水尾村
みずのおむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報