再春館跡
さいしゆんかんあと
東は紺屋今町に接し、山崎町の東南の一画にあった熊本藩の医師養成機関。宝暦の改革の一環として、宝暦六年(一七五六)藩主細川重賢が藩医村井見朴の建白を受け、翌年開講した。当初は飽田郡宮寺村に開設、村井見朴・岩本原理が師役に任命され、本道(内科)・外科・眼科・児科・婦科・口科・鍼科・按摩科の八分科、ほかに引経科(解剖)・物産科(薬物)があった。教育方針は「再春館壁書」に示されており、患者を身分・貧富・謝礼で差別せず仁術にもとづいて本分を守る、治療技術のみでなく学業を尊ぶ、師弟関係を尊重するの三ヵ条であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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