加島庄・加島(読み)かじまのしよう・かじま

日本歴史地名大系 「加島庄・加島」の解説

加島庄・加島
かじまのしよう・かじま

富士川下流域左岸、現今井いまい前田まえだ岩本いわもとを含む広範囲な地域に比定される。賀嶋とも記す。「吾妻鏡」の治承四年(一一八〇)一〇月二〇日条に「武衛令到駿河国賀嶋給」とみえ、源頼朝が当地に到着し、平氏軍と富士川を挟んで対陣している。文永五年(一二六八)三月二三日付北条時宗下文案(北山本門寺文書)に「駿河国賀嶋庄」とみえ、庄内の三社別当職に僧慈遍が任命されており、当時は得宗領であったらしい。しかしこの文書は検討の余地がある。庄内に鳥羽法皇の御願により、当庄領家藤原中納言某が寺地を寄進して建立された天台宗寺院の実相じつそう寺があり、当庄はそれ以前には成立していた(文永五年八月日「実相寺衆徒申状写」北山本門寺文書)

文和四年(一三五五)二月二二日、今川範氏は観応二年(一三五一)二月一日に当庄給主らが実相寺内の八所権現に寄進した「賀嶋庄今井郷友永名内田地伍段」を安堵している(「今川範氏書下」実相寺文書)。のち京都相国しようこく雲頂うんちよう院領となったが、長禄四年(一四六〇)四月二〇日に駿河守護今川義忠の被官福島修理進が雲頂院への年貢上納を怠ったことが訴えられ、足利義政処罰と決している(蔭涼軒日録)。しかし今川氏被官による下地押領は止まなかったようで、寛正六年(一四六五)四月一四日にも当庄に対する今川氏被官人の違乱停止が命じられている(同書)。文明一八年(一四八六)一月二九日、相国寺鹿苑ろくおん院領となっていた当庄の代官職に相国寺をあてている(同書)。延徳四年(一四九二)にも鹿苑院領加島庄とみえるが(同書五月一六日条)、当庄は今川氏の被官らによって押領され続け、庄園としての実態は希薄なものであったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報