加藤正義(読み)カトウ マサヨシ

20世紀日本人名事典 「加藤正義」の解説

加藤 正義
カトウ マサヨシ

明治・大正期の実業家 日本郵船会社副社長;東京市会議長。



生年
嘉永7年2月23日(1854年)

没年
大正12(1923)年12月24日

出生地
伯耆国日野郡渡村(鳥取県)

経歴
地方官吏として地租改正などに従事したのち、明治18年農商務権書記官となる。同年同少輔森岡昌純とともに共同運輸会社に出向、三菱会社との間を調停合併して日本郵船会社が設立されるとともに、設立案文を起草した。22年理事、26年株式会社に改組され取締役、日清戦争中の27年副社長に就任、大正4年まで20年余在任した。この間、明治34年朝鮮、中国を視察、帰国後、長江航路の湖南汽船会社を設立して社長、さらに日清汽船会社を設立した。傍ら、扶桑海上保険社長、帝国海事協会、日本海員掖済会各理事、東京湾築港協会委員などを務め、海運界の隆昌に貢献。また東京市会議長も務めた。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「加藤正義」の解説

加藤正義

没年:大正12.12.24(1923)
生年:安政1.2.23(1854.3.21)
明治期の実業家。鳥取藩士加藤良吉の子。幼少から藩務に従事,廃藩置県後は置賜県(旧米沢藩)に出仕,明治9(1876)年に同県が山形県に併合されるや県令三島通庸と衝突して辞任,翌年兵庫県令森岡昌純のもとで勧業課長となる。18年森岡と共に農商務省に転じ,政府支援の共同運輸会社に出向,同社が同年9月に三菱会社と合併して日本郵船会社が創立されると理事(取締役)に就任,27年副社長となり大正4(1915)年まで20年以上在任した。日本郵船は近海からすすんで欧,米,豪に定期航路を持つ一大海運会社に成長したが,この成功は社長近藤廉平と加藤の進取気性と能力によるところが大きい。

(由井常彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤正義」の解説

加藤正義 かとう-まさよし

1854-1923 明治-大正時代の実業家。
嘉永(かえい)7年2月23日生まれ。兵庫県勧業課長をへて農商務省にはいり,明治18年森岡昌純とともに政府支援の共同運輸へ出向。郵便汽船三菱との調停に奔走し,両社の合併による日本郵船の設立を実現。27年同社副社長。また湖南汽船などを創立。大正12年12月24日死去。70歳。伯耆(ほうき)(鳥取県)出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「加藤正義」の解説

加藤 正義 (かとう まさよし)

生年月日:1854年2月23日
明治時代;大正時代の官吏;実業家。湖南汽船社長
1923年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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