勝能進(読み)かつのうしん

改訂新版 世界大百科事典 「勝能進」の意味・わかりやすい解説

勝能進 (かつのうしん)
生没年:1821-86(文政4-明治19)

幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者。本名高田文助。幼名高蔵。父は幇間の荻江栄蔵とも伝えられるが不詳。浅草諏訪町の提灯問屋の株を持つ。眼丸と称し素人浄瑠璃寄席へ出たり,戯作者三亭春馬の門下となったのち,河竹黙阿弥(当時新七)の門に入り狂言作者となる。1854年(安政1)繁河長治の名で河原崎座に初出勤。57年(安政4)竹柴諺蔵,65年(慶応1)勝諺蔵と改める。師の作品の助筆を勤める一方で,同僚の竹柴濤治とともに,諺蔵,言彦,河流舎の名で1858年刊《江戸桜清水清玄(えどざくらきよみずせいげん)》など師の原作になる草双紙を書く。68年(明治1),師が退座したあとで市村座立作者となるが,経済的困窮と,大谷友右衛門の招きとで大阪に下り,71年《相馬良門莩文談(そうまよしかどめばえぶんだん)》が東京風の脚色で好評。以後息子の3世諺蔵とともに大阪劇壇の第一人者となる。78年師の俳号能進をつぎ,84年同じく師の姓河竹を名のり,大阪で没する。
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朝日日本歴史人物事典 「勝能進」の解説

勝能進(初代)

没年:明治19.10.26(1886)
生年:文政3(1820)
幕末明治期の歌舞伎狂言作者。本名高田文助。江戸生まれ。作者名として繁河長治,竹柴諺蔵,2代目勝諺蔵などを継ぎ,能進を経て最後は河竹能進を名乗った。浄瑠璃の寄席へ出たり,戯作者の門に入ったりしたが,2代目河竹新七(のちの黙阿弥)の門に入って歌舞伎狂言作者となった。嘉永7(1854)年の河原崎座が初出勤。明治4(1871)年に大阪に下って,上方劇界の第一人者として活躍した。江戸時代には脚色を禁じられていた桜田門の変を題材とした「桜田雪誠忠美談」ほか,「柳生流伊賀水月」「小笠原流礼忠孝」などが代表作。<参考文献>伊原敏郎『明治演劇史』

(諏訪春雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勝能進」の解説

勝能進 かつ-のうしん

1821-1886 幕末-明治時代の歌舞伎作者。
文政4年生まれ。三亭春馬,2代河竹新七(黙阿弥)に師事。嘉永(かえい)7年繁河長治の名で江戸河原崎座につとめ,のち2代勝諺蔵(げんぞう)とあらためる。慶応4年(1868)市村座の立作者となり,大阪にいき子の浜彦助(3代勝諺蔵)とともに活躍。明治11年能進と改名。明治19年10月26日死去。66歳。江戸出身。本名は高田文助。後名は河竹能進。作品に「桜田雪(はなふぶき)誠忠美談」など。

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