市村座(読み)いちむらざ

精選版 日本国語大辞典 「市村座」の意味・読み・例文・類語

いちむら‐ざ【市村座】

歌舞伎劇場江戸三座一つ。寛永一一年(一六三四村山又三郎村山座として江戸葺屋町(東京都中央区日本橋堀留町一丁目)に創立。承応元年(一六五二)以降寛文七年(一六六七)ごろまでに市村宇左衛門が譲り受け、市村座と改称。天保一三年(一八四二天保改革によって浅草猿若町(台東区浅草六丁目)に、さらに明治二五年(一八九二下谷二長町(台東一丁目)に移転したが、昭和七年(一九三二焼失して廃座。

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デジタル大辞泉 「市村座」の意味・読み・例文・類語

いちむら‐ざ【市村座】

歌舞伎劇場。江戸三座の一。寛永11年(1634)村山座として、日本橋葺屋町に創立。寛文年間(1661~1672)に市村座と改称。天保13年(1842)浅草猿若町に、明治25年(1892)下谷二長町に移転。昭和7年(1932)焼失して廃座。

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改訂新版 世界大百科事典 「市村座」の意味・わかりやすい解説

市村座 (いちむらざ)

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。創立経過は明確にならない部分が多いが,1634年(寛永11)に村山又三郎が創立した村山座の興行権を,3代市村宇左衛門が譲り受け,67年(寛文7)頃に創設されたという。続き狂言を最初に上演した(《市村座由緒書》享保10年書上)という伝説をもち,大道具や絵看板なども始めたともいわれ,野郎歌舞伎時代に目ざましい発展をしたと見られる。90年(元禄3),座紋を〈隅切角に鶴の丸〉から〈丸に橘〉に改めた。1784-88年(天明4-8),93-98年(寛政5-10),1815-21年(文化12-文政4)の3度にわたって休座,控櫓の桐座都座,玉川座へ興行を譲っている。文化年間には《絵本合法衢》(1810),《隅田川花御所染》(1814)など鶴屋南北の傑作を上演した。42年(天保13)12世羽左衛門の時,天保改革の一環として,浅草猿若町に,中村・森田座とともに移転させられた。幕末には《蔦紅葉宇都谷峠》(1856),《小袖曾我薊色縫》(1859),《三人吉三廓初買》(1860),《曾我綉俠御所染》(1864)など,河竹新七(黙阿弥)の代表作を上演している。72年(明治5)14代市村羽左衛門の時,経営不振のため4度目の休座をし,村山座,宮本座,薩摩座と櫓が移動したが,78年,再開場した。しかしこの時には,市村家とのつながりは切れており,座元としての市村羽左衛門は14代で終わった。92年下谷二長町に移転,1908年から6世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門を迎え,経営者の田村成義の手腕により,〈二長町時代〉と呼ばれる大正・昭和の歌舞伎の頂点をつくりあげた。現代の歌舞伎も,その影響下にあるといってよい。32年5月に焼失したが,再建されずに終わり,市村座の名称も絶えた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「市村座」の意味・わかりやすい解説

市村座
いちむらざ

歌舞伎(かぶき)劇場。江戸三座の一つ。1634年(寛永11)に村山又三郎(またさぶろう)が堺町(さかいちょう)(のちに葺屋(ふきや)町)に建てた村山座が始まりで、のち名義初世の市村宇左衛門(うざえもん)が興行権を譲り受け、寛文(かんぶん)(1661~73)のころ養子の初世市村竹之丞(たけのじょう)に市村座として櫓(やぐら)をあげさせ、以後代々の羽左衛門(うざえもん)が座元を務めた。控(ひかえ)櫓は桐(きり)座であった。1842年(天保13)浅草猿若(さるわか)町に移転。明治に入ると14世羽左衛門が引退して、2世村山又三郎が座元となり村山座と改名。その後、宮本座、薩摩(さつま)座と改め、1878年(明治11)市村座と復名したが、すでに市村家とのつながりはなかった。92年下谷二長町(にちょうまち)に移り、1908年(明治41)から田村成義(なりよし)が経営にあたって、6世尾上(おのえ)菊五郎、初世中村吉右衛門(きちえもん)を中心とする若手歌舞伎で市村座時代といわれる黄金期を招いた。しかし大正後期には衰え、32年(昭和7)5月に焼失、座名は絶えた。

[松井俊諭]


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百科事典マイペディア 「市村座」の意味・わかりやすい解説

市村座【いちむらざ】

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。1634年日本橋葺屋(ふきや)町に建った村山座が起り。1652年市村宇左衛門が興行権を買って市村座と改称。座元は代々の市村羽左衛門。1842年浅草猿若町,1892年下谷二長町に移り,明治末から6世尾上菊五郎らが活躍して栄えたが,1932年焼失し,市村座の名称も絶えた。
→関連項目越後獅子橘屋田村成義中村吉右衛門

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「市村座」の意味・わかりやすい解説

市村座
いちむらざ

17世紀後半から 1932年まで江戸 (東京) にあった歌舞伎劇場。寛文3 (1663) 年頃,興行権を村山座から譲り受けた名義1世市村羽 (宇) 左衛門 (3世市村羽左衛門) が創設したのに始まるが,市村座では前身の村山座の座元,村山又三郎と村山九郎右衛門をそれぞれ1世市村羽左衛門,2世市村羽左衛門としている。江戸時代 200年間,経済的事情からの休座はあったが,代々市村羽 (宇) 左衛門の経営のもとに存続し,中村座,森田座 (→守田座 ) とともに江戸の由緒ある劇場として江戸三座に数えられた。明治5 (1872) 年市村家との関係は絶えたが,1908年田村成義の経営のもとに6世尾上菊五郎,1世中村吉右衛門,7世坂東三津五郎らの若手歌舞伎で,大正,昭和初期の全盛期を現出した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「市村座」の解説

市村座
いちむらざ

江戸の歌舞伎劇場。1725年(享保10)の書上(かきあげ)によれば,1634年(寛永11)村山又三郎が村山座を創設,婿の村田九郎右衛門をへて,その縁者から初世市村宇左衛門が興行権を譲られて市村座と改称したとするが,年代などに疑問がある。「大和守日記」では64~67年(寛文4~7)市村宇左衛門・竹之丞の興行が確認される。元禄期までに所在地も葺屋(ふきや)町と定まり,座元名を市村宇左衛門としたが,1748年(寛延元)羽左衛門と改めた。1872年(明治5)の休座後,興行権は転々としたが,92年下谷二長町(したやにちょうまち)に新開場。1932年(昭和7)焼失し,再建されなかった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「市村座」の解説

市村座
いちむらざ

江戸の歌舞伎劇場。幕府公許の江戸三座の一つ
1634年に京都の村山又三郎が日本橋葺屋 (ふきや) 町に創設した村山座を'52年市村羽左衛門が買収,改称した。のち浅草猿若町,下谷二長町に移転。1932年焼失した。

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世界大百科事典(旧版)内の市村座の言及

【江戸三座】より

…江戸で公許された中村座市村座,森田座(のち守田座)の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが,1714年(正徳4),江島生島事件によって山村座が廃絶,以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。…

【海道下り】より

…女方の祖とも称される右近(うこん)源左衛門がこの曲を得意とし,1648年(慶安1)ころ江戸村山座に下ってこの舞で評判をとったと伝えられる。のち,村山座の後身である市村座の寿狂言(家狂言)として《海道下り》が定められるが,右近源左衛門が村山座に下ったゆかりによるのであろう。狂言仕立のこの台本では,伯母役として海道下りを舞うので,源左衛門が万治・寛文(1658‐73)に江戸にあったころに作られたものであろう。…

【歌舞伎】より

…舞踊の名手で人気の伯仲していた3世中村歌右衛門と3世坂東三津五郎との対抗が,変化舞踊の流行に拍車をかけた。
[黙阿弥と幕末]
 1841年(天保12)10月,堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として,芝居の取りつぶしが計画された。これは天保改革の一環であった。…

【劇場】より


[劇場の常設化]
 寛永期には江戸中橋南地のほかに京都四条,大坂道頓堀にも芝居町が形成され,ある程度の様式をそなえた劇場がつくられた。江戸においては中村座を嚆矢(こうし)とし,ついで1633年1月の都伝内による堺町の都座,翌年3月村山又三郎による堺町の村山座(後の市村座),42年3月山村小兵衛による木挽町5丁目の山村座,しばらくおくれて56年(明暦2)河原崎権之助による木挽町5丁目の河原崎座,60年(万治3)4月森田太郎兵衛による木挽町5丁目の森田座(後の守田座)の創業というように,次々に歌舞伎の常設劇場が建設されていった。いずれも舞台間口3間を定式とし,土間席は野天のままで,わずかに舞台部分と桟敷席に屋根が架してあった。…

【興行】より

… 江戸時代に入ると歌舞伎や人形浄瑠璃の興行は,江戸でも上方でも共通に幕府から興行権を与えられたもののみが行うことができるというきびしい仕組であった。江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。…

【寿狂言】より

…江戸の劇場の中村座市村座,森田座(守田座)に伝承された祝言儀礼的狂言のこと。家狂言ともいう。…

【猿若町】より

…現在の東京都台東区浅草6丁目に相当する。都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。…

※「市村座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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