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市村座 いちむらざ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

市村座
いちむらざ

17世紀後半から 1932年まで江戸 (東京) にあった歌舞伎劇場。寛文3 (1663) 年頃,興行権を村山座から譲り受けた名義1世市村羽 (宇) 左衛門 (3世市村羽左衛門) が創設したのに始まるが,市村座では前身の村山座の座元,村山又三郎と村山九郎右衛門をそれぞれ1世市村羽左衛門,2世市村羽左衛門としている。江戸時代 200年間,経済的事情からの休座はあったが,代々市村羽 (宇) 左衛門の経営のもとに存続し,中村座,森田座 (→守田座 ) とともに江戸の由緒ある劇場として江戸三座に数えられた。明治5 (1872) 年市村家との関係は絶えたが,1908年田村成義の経営のもとに6世尾上菊五郎,1世中村吉右衛門,7世坂東三津五郎らの若手歌舞伎で,大正,昭和初期の全盛期を現出した。

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デジタル大辞泉の解説

いちむら‐ざ【市村座】

歌舞伎劇場。江戸三座の一。寛永11年(1634)村山座として、日本橋葺屋町に創立。寛文年間(1661~1672)に市村座と改称。天保13年(1842)浅草猿若町に、明治25年(1892)下谷二長町に移転。昭和7年(1932)焼失して廃座。

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百科事典マイペディアの解説

市村座【いちむらざ】

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。1634年日本橋葺屋(ふきや)町に建った村山座が起り。1652年市村宇左衛門が興行権を買って市村座と改称。座元は代々の市村羽左衛門
→関連項目越後獅子橘屋田村成義中村吉右衛門

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世界大百科事典 第2版の解説

いちむらざ【市村座】

歌舞伎劇場。江戸三座の一つ。創立経過は明確にならない部分が多いが,1634年(寛永11)に村山又三郎が創立した村山座の興行権を,3代市村宇左衛門が譲り受け,67年(寛文7)頃に創設されたという。続き狂言を最初に上演した(《市村座由緒書》享保10年書上)という伝説をもち,大道具や絵看板なども始めたともいわれ,野郎歌舞伎時代に目ざましい発展をしたと見られる。90年(元禄3),座紋を〈隅切角に鶴の丸〉から〈丸に橘〉に改めた。

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大辞林 第三版の解説

いちむらざ【市村座】

歌舞伎劇場。中村座・森田座とともに江戸三座の一。1634年、江戸葺屋町に村山座として創設。67年頃改称して市村座。1841年浅草猿若町に移転。明治中期以降下谷二長町にあり、六世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門ら若手が出演して、市村座時代を現出したが、1932年(昭和7)焼失して廃座。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

市村座
いちむらざ

歌舞伎(かぶき)劇場。江戸三座の一つ。1634年(寛永11)に村山又三郎(またさぶろう)が堺町(さかいちょう)(のちに葺屋(ふきや)町)に建てた村山座が始まりで、のち名義初世の市村宇左衛門(うざえもん)が興行権を譲り受け、寛文(かんぶん)(1661~73)のころ養子の初世市村竹之丞(たけのじょう)に市村座として櫓(やぐら)をあげさせ、以後代々の羽左衛門(うざえもん)が座元を務めた。控(ひかえ)櫓は桐(きり)座であった。1842年(天保13)浅草猿若(さるわか)町に移転。明治に入ると14世羽左衛門が引退して、2世村山又三郎が座元となり村山座と改名。その後、宮本座、薩摩(さつま)座と改め、1878年(明治11)市村座と復名したが、すでに市村家とのつながりはなかった。92年下谷二長町(にちょうまち)に移り、1908年(明治41)から田村成義(なりよし)が経営にあたって、6世尾上(おのえ)菊五郎、初世中村吉右衛門(きちえもん)を中心とする若手歌舞伎で市村座時代といわれる黄金期を招いた。しかし大正後期には衰え、32年(昭和7)5月に焼失、座名は絶えた。[松井俊諭]

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世界大百科事典内の市村座の言及

【江戸三座】より

…江戸で公許された中村座市村座,森田座(のち守田座)の三芝居。元禄期(1688‐1704)には山村座を含め四座存在したが,1714年(正徳4),江島生島事件によって山村座が廃絶,以降明治に至るまで三座に限って興行が公認された。…

【海道下り】より

…女方の祖とも称される右近(うこん)源左衛門がこの曲を得意とし,1648年(慶安1)ころ江戸村山座に下ってこの舞で評判をとったと伝えられる。のち,村山座の後身である市村座の寿狂言(家狂言)として《海道下り》が定められるが,右近源左衛門が村山座に下ったゆかりによるのであろう。狂言仕立のこの台本では,伯母役として海道下りを舞うので,源左衛門が万治・寛文(1658‐73)に江戸にあったころに作られたものであろう。…

【歌舞伎】より

…舞踊の名手で人気の伯仲していた3世中村歌右衛門と3世坂東三津五郎との対抗が,変化舞踊の流行に拍車をかけた。
[黙阿弥と幕末]
 1841年(天保12)10月,堺町中村座と葺屋町市村座が焼失したのを契機として,芝居の取りつぶしが計画された。これは天保改革の一環であった。…

【劇場】より


[劇場の常設化]
 寛永期には江戸中橋南地のほかに京都四条,大坂道頓堀にも芝居町が形成され,ある程度の様式をそなえた劇場がつくられた。江戸においては中村座を嚆矢(こうし)とし,ついで1633年1月の都伝内による堺町の都座,翌年3月村山又三郎による堺町の村山座(後の市村座),42年3月山村小兵衛による木挽町5丁目の山村座,しばらくおくれて56年(明暦2)河原崎権之助による木挽町5丁目の河原崎座,60年(万治3)4月森田太郎兵衛による木挽町5丁目の森田座(後の守田座)の創業というように,次々に歌舞伎の常設劇場が建設されていった。いずれも舞台間口3間を定式とし,土間席は野天のままで,わずかに舞台部分と桟敷席に屋根が架してあった。…

【興行】より

… 江戸時代に入ると歌舞伎や人形浄瑠璃の興行は,江戸でも上方でも共通に幕府から興行権を与えられたもののみが行うことができるというきびしい仕組であった。江戸を例にすると宮地芝居を別として,歌舞伎では1714年(正徳4)9月以降幕末まで中村座の中村勘三郎,市村座の市村羽左衛門,森田座の森田勘弥の3人の座元に限って,歌舞伎を興行する権利が官許され,興行権の象徴である〈(やぐら)〉をあげることができた。この3座を〈江戸三座〉と呼んでいる。…

【寿狂言】より

…江戸の劇場の中村座市村座,森田座(守田座)に伝承された祝言儀礼的狂言のこと。家狂言ともいう。…

【猿若町】より

…現在の東京都台東区浅草6丁目に相当する。都市の消費経済の締付け政策をとった天保改革により,1841年(天保12)から42年にかけて,堺町の中村座,葺屋町の市村座,木挽町の河原崎座(森田座)の江戸三座が,江戸の市外地である浅草聖天町,小出信濃守の下屋敷跡へ移転を命じられた。その地が猿若町と名づけられ,1丁目に中村座と人形浄瑠璃の薩摩座が,2丁目に市村座と人形浄瑠璃の結城座(ゆうきざ)が,3丁目に河原崎座が建築され,明治初年まで,江戸の歓楽街として繁栄した。…

※「市村座」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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