落語などを上演する小規模な常設演芸場。「よせ」とは「寄せ場」の略語であり、「人を寄せる場所」という意味である。江戸後期の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』には「人をよする故なり」と記されている。要するに大ぜいの人々を寄せ集めて、落語、講談、浪花節(なにわぶし)(浪曲)、漫才(まんざい)、奇術などさまざまな大衆芸能を興行する場所であり、「寄席」の字をあてているが、単に「席(せき)」とよぶこともある。
[関山和夫]
すでに江戸時代の初めのころから寺社の境内などで辻咄(つじばなし)や講釈が行われており、天和(てんな)・貞享(じょうきょう)(1681~88)のころには、江戸落語の祖といわれる鹿野武左衛門(しかのぶざえもん)が、江戸の中橋広小路でよしず張りの小屋掛けで興行をしているし、安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~89)のころから、噺家(はなしか)の自宅、寺院や茶屋の座敷などで「咄(はなし)の会」を興行するものもあった。しかし、現在の寄席のような形態を整えたのは、大坂から江戸にきた噺家の岡本万作が、1798年(寛政10)6月に神田(かんだ)豊島(としま)町藁店(わらだな)に「頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)」という看板を掲げて常設の寄席をつくったのが最初である。これに対抗した初代三笑亭可楽(からく)が下谷(したや)柳町の稲荷(いなり)神社境内に寄席を開いたこともあり、のちに可楽は本格的な寄席興行の基をつくり、多数の寄席芸人を育成した。
寄席がもっとも盛んになったのは、文化・文政(ぶんかぶんせい)年間で、1815年(文化12)に江戸市中に寄席は75軒、文政年間(1818~30)には125軒を数えた。1834年(天保5)に出た寺門静軒(てらかどせいけん)の『江戸繁昌記(はんじょうき)』によれば、天保(てんぽう)のころには、7日替わりの常打ちに近い寄席の形態が整えられていたことがわかる。寄席には昼席と夜席があり、出演者名と日を記した行灯(あんどん)をかけ、下足番が呼び込みをした。噺家が扇子と手拭(てぬぐい)で落語を演ずる形式も前座制も天保初期には完成されていた。寄席の経営者は「席亭(せきてい)」とよばれた。江戸の寄席は、天保の改革で1842年以降わずか15軒に減り、その名目は神道(しんとう)講釈、心学、軍書講談、昔咄の4種で営業を許されたが、その後、ふたたび盛んになり、安政(あんせい)年間(1854~60)には「はなしの席」が172軒となった。『大江戸都会荒増(あらまし)勘定』には「軍談の席二百二十軒、はなしの席百七十二軒」とあり、この約400軒の寄席に1日平均それぞれ100人の入場者があり、1日の売上金は合計300両を超えたという。
寄席は、明治に入っても衰えをみせず、1884年(明治17)刊『東京案内』には87軒の寄席が記されている。1912年(大正1)ごろでも、名のあるものだけで43、4軒はあった。しかし、大正中期になると活動写真(映画)が登場したため、寄席は急激に衰退し、昭和に入ってますます減少してしまった。第二次世界大戦後、東京の寄席は数軒復活したが、往年の隆盛を取り戻すことはできなかった。それでも1か月を10日ずつにくぎって上席(かみせき)・中席(なかせき)・下席(しもせき)とよぶ興行方式はいまも続いている。
[関山和夫]
大坂の寄席は江戸よりも早く発達し、初代米沢(よねざわ)彦八は元禄(げんろく)(1688~1704)のころ生玉(いくたま)社境内でよしず張りの興行を行ったようであり、松田弥助(やすけ)、初代桂(かつら)文治が寛政(かんせい)(1789~1801)から文化・文政期(1804~30)にかけて寄席興行の基礎を固めた。天保・弘化(こうか)(1830~48)のころに桂、林家(はやしや)、笑福亭(しょうふくてい)、立川(たてかわ)のいわゆる上方(かみがた)四派の噺家たちの活躍によって大坂の落語は発展し、嘉永(かえい)・安政(1848~60)のころに大坂の落語や寄席の形態が完成し、寄席はすこぶる隆盛であった。
明治に入ってからも大阪の寄席は栄えた。落語中心の寄席は桂派が牛耳(ぎゅうじ)っていたが、1893年(明治26)に浪花(なにわ)三友派がおこって2派に分かれた。1910年(明治43)には興行師の手によって反対派もできて寄席興行は混乱した。近代の大阪では、法善寺、千日前、松島、道頓堀、新町、座摩(ざま)、御霊(ごりょう)、北之新地、上本町(うえほんまち)、日本(にっぽん)橋、天満(てんま)天神、内本町、梅田などで寄席が繁盛し、千日前の播重(はりじゅう)席のような女義太夫(ぎだゆう)専門の席が栄えたこともあったが、大正末から昭和にかけてしだいに衰退していった。大阪には吉本せい(1890―1950)という傑出した興行師が出現したため、大正から昭和にかけて東京とは異質の寄席興行の形態がとられて今日に及んでいる。そのほか、京都、神戸、名古屋にも古くからの寄席興行の歴史があり、江戸時代から多数の寄席芸人が出演して隆盛だった記録を残している。
[関山和夫]
寄席演芸に関する種々の記録のなかでもっとも注目されるのは、尾張(おわり)藩士の小寺玉晁(こでらぎょくちょう)(1800―78)が書き残した『見世物雑志』である。この書は、1818年(文政1)から42年(天保13)までの名古屋における寄席興行を記録した貴重な研究資料である。このなかには、軽口噺、釣人形、軽業(かるわざ)、咄、見世物、物真似(ものまね)、講釈、籠細工(かございく)、浄瑠璃(じょうるり)、鳥の鳴き声物真似、長崎蛇(じゃ)踊り、小芝居、竹田からくり、説経(せっきょう)、落し噺、独楽(こま)回し、力持ち、住吉踊り、操り、影絵、ちょんがれ、曲文字書き、新内など、江戸時代における寄席演芸のすべてが網羅されている。式亭三馬(しきていさんば)の『落話会刷画帖(おとしばなしかいすりえちょう)』(『落話中興来由』)にも浄瑠璃、小唄(こうた)、軍書読み、手妻(てづま)、八人芸、説経、祭文(さいもん)、物真似尽くしなどが記されている。これによって、落語以外のいわゆる「色物(いろもの)」が文化・文政期から寄席演芸として幅広く活動して民衆の人気を得ていたことがよくわかる。写し絵、百眼(ひゃくまなこ)、音曲、顔似せなども人気があったが、時代の変遷とともにこれらはしだいに姿を消し、また変容していった。
色物は、明治以後も進展して現代に及んでいるが、大阪では興行会社が設立されてから漫才が脚光を浴びて寄席の主流を占めた。したがって大正から昭和にかけて寄席の形態が著しく変化し、落語、漫才、音曲、声色(こわいろ)(声帯(せいたい)模写)、百面相(ひゃくめんそう)、手品、曲芸、独楽、紙切り、腹話術、漫談などを混交して興行する席を「色物席」とよぶようになり、そのほか、操り人形の専門席、貝祭文(かいさいもん)席、講談席、義太夫席、浪花節席、八人芸席などが出現したこともあった。また、昼は講談、夜は色物という2部制興行をしたこともあった。現在は大阪でも、落語が話芸としての価値を認められて、色物と区別して再認識されるようになってきた。これは現代の噺家たちの努力によるものだが、歴史的にみて当然の帰結といわねばならない。
[関山和夫]
寄席が著しく変貌(へんぼう)したのは第二次世界大戦後のことである。とくにテレビの出現は寄席演芸のあり方を変えた。マス・メディアの発達は、別の意味での寄席演芸に対する一般の関心を高めたが、芸人はテレビタレントとして活躍するようになり、ホール寄席や特殊な落語会が全国で盛んになって、旧来の常打ちの寄席興行は衰退したままである。東京では定席(じょうせき)として上野鈴本(すずもと)演芸場、新宿末広亭(すえひろてい)、浅草演芸ホール、池袋演芸場に、1979年11月から国立劇場演芸場が加わった。上野本牧亭(ほんもくてい)は日本で唯一の講談の定席であったが、90年(平成2)惜しまれながら閉館した。関西では大阪に「なんばグランド花月(NGK)」「ワッハ上方」があるが、これらは、いまでは劇場の観念が強く、江戸時代からの伝統的な寄席とは少々イメージを異にする。名古屋には大須(おおす)演芸場がある。
[関山和夫]
『芸能史研究会編『日本の古典芸能9 寄席』(1971・平凡社)』▽『三遊亭円生著『寄席切絵図』(1977・青蛙房)』▽『南博・永井啓夫・小沢昭一編『芸双書1 いろどる――色物の世界』(1981・白水社)』▽『諸芸懇話会・大阪芸能懇話会編『古今東西 落語家事典』(1989・平凡社)』▽『山本進編『落語ハンドブック』改訂版(2001・三省堂)』
〈よせ〉というのは,もとは〈寄せ場〉の略語であり,〈人を寄せる〉という意味である。大勢の人を寄せて,さまざまな演芸を興行するところで,〈寄席〉の字を当てているが,単に〈席(せき)〉と呼ぶこともある。
寄席は,江戸時代の初めごろに,寺社の境内などで葭簀(よしず)張りの辻咄(つじばなし)や講釈を行ったものがあり,天和・貞享(1681-88)のころには,江戸落語の祖といわれる鹿野(しかの)武左衛門(1649-99)が,江戸の中橋広小路で葭簀張りの小屋掛けで興行をしているし,また安永・天明(1772-89)のころから噺家(はなしか)の自宅や寺院,茶屋の座敷などで〈咄(はなし)の会〉を興行するものもあったが,現在の寄席のような形ができたのは,1798年(寛政10)6月に大坂から江戸に来た岡本万作が,神田豊島町藁店(わらだな)に〈頓作軽口噺(とんさくかるくちばなし)〉という看板を掲げ常設の寄席を作ったのが最初である。これに対抗して意欲を燃やしたのが初代三笑亭可楽(さんしようていからく)(1777-1832)であり,彼は下谷柳町の稲荷神社の境内に寄席を開いた。のちに可楽は本格的な寄席興行の基礎を作り,多数のすぐれた寄席芸人を育成した。
寄席興行が最も盛んになったのは,文化・文政のころで,1815年(文化12)に江戸市中に寄席は75軒,文政年間(1818-30)には125軒を数えた。1834年(天保5)に出た寺門静軒の《江戸繁昌記》によれば,天保のころには,すでに7日替りの常打ち(定席(じようせき))に近い寄席の形態が整えられていたことがわかる。寄席には昼席(ひるせき)と夜席(よるせき)があり,出演者名と日を記した行灯をかけ,下足番が呼びこみをしていた。噺家が扇子と手ぬぐいで落語を演ずる形式も,前座(ぜんざ)制も,中入りに前座がくじを売る習慣も天保初期には完成されていた。寄席の経営者は〈席亭(せきてい)〉と呼ばれた。江戸の寄席は,天保の初めごろには銭湯や髪結床なみに数が多かったが,〈天保の改革〉で1842年(天保13)以降,わずか15軒に減り,演目も神道(しんとう)講釈,心学,軍書講釈,昔咄の4種ということで営業を許可された。しかし,民衆の要望が強かったために,その後,ふたたびしだいに盛んとなり,安政年間(1854-60)には〈はなしの席〉が172軒になった。《大江戸都会荒増勘定》には〈軍談の席二百二十軒,はなしの席百七十二軒〉とあり,この約400軒の寄席に1日平均それぞれ100人の入場者があり,1日の売上金は合計300両を超えた。なお,講釈の席は〈釈場(しやくば)〉ともいわれ,〈夜講(やこう)〉も行われた。
寄席は,明治に入っても衰えを見せず,《東京案内》(1884)には87軒の寄席が記されている。1912年ごろでも,名のあるものだけで43,4軒はあった。それが大正中期になると活動写真(映画)が登場したために寄席は急激に衰退し,昭和に入るとますます減少した。第2次大戦後,東京の寄席は数軒復活したが,往年の隆盛を取り戻すことはできなかった。やがてテレビが出現し,別の意味での寄席演芸に対する一般の関心は高まったが,ホール寄席や特殊な落語会が盛んになって,旧来の常打ちの寄席興行は衰退したままである。それでも一ヵ月を10日ずつに区切って,上席(かみせき)・中席(なかせき)・下席(しもせき)と呼ぶ興行は続いている。
大坂の寄席は,江戸よりも早くできた。初代米沢彦八(?-1714)はすでに元禄のころに生玉(いくたま)社境内で葭簀張りの興行を行ったようであり,松田弥助や初代桂文治は,寛政から文化・文政のころにかけての寄席興行の基礎を固めている。天保から弘化(1844-48)のころに桂(かつら)・林家(はやしや)・笑福亭(しようふくてい)・立川(たてかわ)のいわゆる上方四派の噺家たちが大いに活躍したために大坂の寄席の形態は完成され,寄席興行はすこぶる隆盛であった。明治に入ってからも大阪の寄席は栄えた。落語を中心とする寄席は〈桂派〉が牛耳っていたが,1893年に〈浪花三友派(なにわさんゆうは)〉が起こって2派に分かれた。そして,芸風と寄席の興行方針が対照的となった。〈桂派〉は伝統を守って地味な行き方をとり,素噺を尊重して話芸の特色を維持し続けたが,〈浪花三友派〉は派手で娯楽性を十分に盛りこんで多彩な色物をも寄席の世界に導入した。この2派の対抗意識は,おのずから芸の力を向上させ,寄席興行の発展にいちじるしく貢献したのであるが,1910年に興行師の手によって〈反対派〉と称する一派ができて寄席興行は混乱していった。近代の大阪には,法善寺,千日前,松島,道頓堀,新町,座摩(ざま),御霊(ごりよう),北之新地,上本町(うえほんまち),日本橋,天満天神,内本町,梅田などで寄席が繁盛し,特に千日前の播重(はりじゆう)席のような女義太夫(おんなぎだゆう)専門の寄席が栄えたこともあったが,大正末から昭和にかけてしだいに衰退し変貌していった。大阪の寄席興行については,吉本(よしもと)せい(1890-1950)という傑出した興行師が出現したため(吉本興業部,吉本興業合名会社を経て,今日の吉本興業株式会社につながる),大正から昭和にかけて東京とは大いに違う寄席興行の形態がとられて今日に及んでいる。
そのほか,京都,神戸,名古屋にも古くからの寄席興行の歴史があり,江戸時代から多数の寄席芸人が出演した記録がある。
寄席に関する種々の記録のなかで,尾張藩士小寺玉晁が書き残した《見世物雑志》は,1818年(文政1)から1842年(天保13)までの名古屋における寄席興行を記録した貴重な研究資料である。この書には,軽口噺,釣人形,軽業(かるわざ),咄,見世物,物真似(ものまね),講釈,籠細工,浄瑠璃,鳥の鳴き声物真似,長崎蛇踊り,小芝居,竹田からくり,説経,落とし噺,こままわし,力持ち,住吉踊り,ビイドロ船,あやつり,辻能,影絵,ちょんがれ,曲文字書き,新内など,江戸時代における寄席演芸のすべてが網羅されている。寄席の演芸については,式亭三馬の《落話中興来由》に〈浄瑠璃,小唄,軍書読み,手妻(てづま),八人芸,説経祭文(せつきようさいもん),物まねすかしなどを業とするを云々〉とあることから,落語以外のいわゆる〈色物〉が文化・文政期から寄席演芸として幅広く活動して民衆の人気を得ていたことがわかる。寄席演芸は,江戸時代から明治・大正・昭和にかけて幾多の名人を輩出したが,大正から昭和にかけて紙切り,漫才,漫談など新しいジャンルが生まれたことも注目される。
→講談 →浪花節(なにわぶし) →落語
執筆者:関山 和夫
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落語・講釈・漫才などの大衆芸能を上演するところ。演芸場。人寄せ場の意。源流としては,元禄期に活躍した京の露の五郎兵衛や江戸の鹿野武左衛門,大坂の米沢彦八らが辻咄(つじばなし)に用いた仮設の筵(むしろ)小屋があげられるが,寛政年間に三笑亭可楽が江戸の下谷に落語の席を開いたのが最初。晴雨にかかわらず口演できたので,自然人寄せの場所になり,寄席となった。同時期に大坂では初代桂文治が常打小屋を建てたが,関西では席または講釈場と称した。以来,盛衰をくり返し今日に至るが,最盛期には東西に100軒をこす寄席があった。
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(太田博 演劇・演芸評論家 / 2007年)
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…公衆の面前で芸人によって演じられる諸芸の総称で,芸能とほとんど同じ意味で使用されてきた。演芸という言葉が一般化した明治から大正にかけては,歌舞伎を中心とする演劇および下座音楽を使った寄席(よせ)でおこなわれた演芸に対して用いられていたが,今日では演劇以外の雑芸を指す言葉として使われるのが普通で,〈演劇〉と区別されている。歴史的にみると,興行取締りの面でも両者は区別され,1921年の警視庁の〈興行場及興行取締規則執行心得〉は,演劇を見せる劇場に対して,〈演芸場とは主として講談,落語,浄瑠璃,唄,音曲等を公衆の聴聞に供する常設の場所〉とし,さらに軽業,曲芸,奇術等の技芸を上演する観物場をあげている。…
…常設の寄席(よせ)の意。貸席(かしせき)や現代のいわゆる〈ホール落語〉の貸ホールなどとは区別される。…
…多くの所作事と人気狂言が,猿芝居,曲馬また種々の細工物などのかたちで〈見世物化〉されているし,江戸末期に子供曲持の鉄割熊蔵(弥吉)一座が演じた〈葛の葉障子の曲〉(歌舞伎の《葛の葉》子別れの場の曲芸化)のように,サーカスの〈ゲソ(足芸)〉に受け継がれて,今日でも木下サーカスの十八番として演じられているような例もある。 また今日,見世物芸の伝承を色濃くみてとることができるもう一つのものは,寄席のいわゆる〈色物〉であろう。皿廻しなどのいわゆる〈太神楽曲芸〉,曲独楽,声帯模写,百面相などは,実質的にはまったく同じものを,江戸期の見世物にみることができるし,寄席の歴史を明治から江戸へとさかのぼるならば(寄席),むしろ寄席芸は,見世物=寄席芸=大道芸といった相互連鎖の可逆的流動のなかで,とらえるべきだと思われる。…
※「寄席」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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