北京議定書(読み)ペキンぎていしょ

精選版 日本国語大辞典 「北京議定書」の意味・読み・例文・類語

ペキン‐ぎていしょ【北京議定書】

義和団事件後、一九〇一年七月、清国と連合国との間に結ばれた条約列国側の講和条件大綱一二条を骨子とし、責任者処罰賠償金査定などを含む。辛丑(しんちゅう)和約ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「北京議定書」の意味・わかりやすい解説

北京議定書
ぺきんぎていしょ

義和団事件の講和に関する最終議定書。辛丑(しんちゅう)条約ともいう。中国清(しん)末の排外運動であった義和団事件鎮圧には共同歩調をとれた列強も、その後の状況に対する意図はまちまちであった。そのため講和会義は難渋を極め、約10か月も要した。ようやく1901年9月7日、イギリスフランスアメリカロシアドイツ、日本などの11か国は、北京清朝と条約を締結した。条約は全部で12条、ほかに附件19件。おもな内容は、〔1〕ドイツ、日本への謝罪使の派遣、〔2〕事件指導者の処罰、〔3〕外国人が殺害された地方での科挙の停止、〔4〕関税、塩税を担保とした総額4億5000万両(テール)の賠償、〔5〕総理各国事務衙門(がもん)を外務部に改め、六部(りくぶ)の上位に置くこと、などである。この条約で清朝そのものの存続はなお認められたが、しかし中国の半植民地化は決定的なものになった。

[倉橋正直]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「北京議定書」の解説

北京議定書
ペキンぎていしょ

1901年(明治34)9月7日に調印された北清事変最終議定書。独,オーストリア,ベルギー,スペイン,米,仏,英,伊,日,蘭,露の各国全権委員と清国全権委員(慶親王・李鴻章)との間に北京で調印。内容はドイツと日本への謝罪使の派遣,義和団首謀者の処罰,列国への償金4億5000万両の支払い,北京公使館区域に各国護衛兵の常置,現通商航海条約を通商上便利にするための改訂などである。日本はこれにより下関条約を改訂し,03年10月に追加日清通商航海条約に調印した。清国はこれにより完全に財政破綻し,経済的に列国に依存することとなった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「北京議定書」の解説

北京議定書(ペキンぎていしょ)

清末,1901年(辛丑(しんちゅう))9月,清国と日本,イギリス,アメリカ,ドイツ,フランスなど11カ国の連合国との間に調印された義和団事件処理に関する最終議定書。清国は列国に4億5000万両の賠償金の支払い,事件責任者の処分,日本,ドイツへの謝罪使派遣,各国軍隊の北京,天津への駐屯,武器・弾薬の輸入2年間禁止などを認めた。中国では定められた年にちなんで,ふつう辛丑和約と呼ぶ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「北京議定書」の解説

北京議定書
ペキンぎていしょ

1901年,義和団事件(北清事変)鎮圧後,列国と清国との間で結ばれた最終議定書
ドイツ・オーストリア・ベルギー・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・日本・オランダ・ロシア・イギリスの11カ国代表と清国との間で調印。これにより列国は多額の賠償金と軍隊の北京常駐を認めさせた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「北京議定書」の解説

北京議定書
ペキンぎていしょ

義和団事件

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