義和団事件の講和に関する最終議定書。辛丑(しんちゅう)条約ともいう。中国清(しん)末の排外運動であった義和団事件鎮圧には共同歩調をとれた列強も、その後の状況に対する意図はまちまちであった。そのため講和会義は難渋を極め、約10か月も要した。ようやく1901年9月7日、イギリス、フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、日本などの11か国は、北京で清朝と条約を締結した。条約は全部で12条、ほかに附件19件。おもな内容は、〔1〕ドイツ、日本への謝罪使の派遣、〔2〕事件指導者の処罰、〔3〕外国人が殺害された地方での科挙の停止、〔4〕関税、塩税を担保とした総額4億5000万両(テール)の賠償、〔5〕総理各国事務衙門(がもん)を外務部に改め、六部(りくぶ)の上位に置くこと、などである。この条約で清朝そのものの存続はなお認められたが、しかし中国の半植民地化は決定的なものになった。
[倉橋正直]
1901年(明治34)9月7日に調印された北清事変最終議定書。独,オーストリア,ベルギー,スペイン,米,仏,英,伊,日,蘭,露の各国全権委員と清国全権委員(慶親王・李鴻章)との間に北京で調印。内容はドイツと日本への謝罪使の派遣,義和団首謀者の処罰,列国への償金4億5000万両の支払い,北京公使館区域に各国護衛兵の常置,現通商航海条約を通商上便利にするための改訂などである。日本はこれにより下関条約を改訂し,03年10月に追加日清通商航海条約に調印した。清国はこれにより完全に財政破綻し,経済的に列国に依存することとなった。
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清末,1901年(辛丑(しんちゅう))9月,清国と日本,イギリス,アメリカ,ドイツ,フランスなど11カ国の連合国との間に調印された義和団事件処理に関する最終議定書。清国は列国に4億5000万両の賠償金の支払い,事件責任者の処分,日本,ドイツへの謝罪使派遣,各国軍隊の北京,天津への駐屯,武器・弾薬の輸入2年間禁止などを認めた。中国では定められた年にちなんで,ふつう辛丑和約と呼ぶ。
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