日本歴史地名大系 「北山殿跡」の解説
北山殿跡
きたやまどのあと
足利義満が西園寺家より現在の
造営は応永四年(一三九七)に始まり、「在盛卿記」四月一六日条に「北山、亭立柱上棟也、人々多進馬於室町殿」とみえ、翌五年には義満が北山第に移徙している(同書四月二二日条)。「臥雲日件録抜尤」に最一検校の話として、義満が諸大名に土木役を命じたが、ひとり大内義弘が「吾士以弓矢為義而已」と断ったこと、また予定費用の二八貫をはるかに超える百万貫を費やしたことを載せる。
北山殿は、義満の北御所、夫人日野康子の南御所、後光厳院の典侍で後円融院生母であった崇賢門院の御所の三つの御所からなっていた。「門葉記」「孝円寺務応永九年記」「兼宣公記」「松崎文書」などによれば、造営は次のようであった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報