日本歴史地名大系 「北条市」の解説 北条市ほうじようし 面積:一〇二・二八平方キロ松山市の北部に位置する。西は斎(いつき)灘、東は標高九七七・六メートルの北三方(きたさんぽう)ヶ森(もり)、北は越智(おち)郡菊間(きくま)町。高縄(たかなわ)山(九八六メートル)に源を発し西流する立岩(たていわ)川・河野(こうの)川・高山(こうやま)川・粟井(あわい)川沿いにほとんどの集落が立地する。北条の名は律令時代の条里制に由来するといわれる。また「予章記」に「為綱風早大領伊予権介其子親孝(ちかたか)北条大夫氏長者ト云」とあり、親孝の居館を北条館と称したところから、これに由来するとの説もある。同書によると親孝の子親経は、康平六年(一〇六三)伊予守となった源頼義に仕え、頼義の薬師堂・八幡宮建立に参画したとある。庄(しよう)薬師堂との関連が考えられる。〔原始〕難波(なんば)地区の恵良(えりよう)山付近、八反地の国津比古命(はつたんじのくにつひこのみこと)神社から河野地区の山手にかけて遠賀川式土器(弥生)が出土する。古墳は標高一〇―一〇〇メートル地帯に多くが集中、下難波(しもなんば)・才之原(さいのはら)・片山(かたやま)に古墳群がみられ、市内全域で二六五基が確認されている。〔古代〕「伊予温故録」によると「和名抄」記載の風早(かざはや)郡(古くは風速)五郷の「粟井・河野・高田・難波・那賀」はすべて北条市域内に比定され、高田(たかた)・那賀(なか)はのち正岡(まさおか)郷となった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報