難波(読み)ナニワ

デジタル大辞泉 「難波」の意味・読み・例文・類語

なにわ〔なには〕【難波/浪速/浪華/浪花】

大阪市付近の古称。特に、上町うえまち台地の北部一帯。仁徳天皇難波高津宮孝徳天皇難波長柄豊碕宮ながらのとよさきのみやなど、たびたび皇居が造営された地。また、一般に、大阪のこと。
(浪速)大阪市中部の区名。道頓堀川の南、木津川の東の地域。今宮えびす神社新世界通天閣がある。

なんば【難波】

《「なにわ(難波)」の音変化》大阪市の中央区から浪速区にまたがる地名。道頓堀千日前などとともに「ミナミ」と称される繁華街をなす。→梅田

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精選版 日本国語大辞典 「難波」の意味・読み・例文・類語

なにわなには【難波・浪速・浪華・浪花】

  1. [ 一 ] 大阪市の上町台地以東の地域の古称。また、一般に大阪をいう。
  2. [ 二 ] ( 浪速 ) 大阪市の行政区の一つ。道頓堀川の南側、木津川の東側の地域。北部の難波(なんば)地区は繁華街「ミナミ」の一角。日本橋筋などの問屋街があり、皮革・金属・家具製造などの中小工場も多い。大正一四年(一九二五)成立。
  3. [ 三 ] ( 難波 ) 謡曲。脇能物。各流。世阿彌作。朝臣が新年に三熊野からの帰途難波の里を訪れると、若い男を連れた老人が現われて梅をさして、これが古今集の歌に「難波の梅」とよまれた名木であると語り、自分はその歌をよんだ王仁(おうにん)で若い男は梅の精だと言って消える。その夜の夢の中に王仁と木華開耶姫(このはなさくやひめ)が現われ、舞楽を奏し聖代を祝福する。
  4. [ 四 ] ( 難波 ) 抹茶茶碗。黄瀬戸。安土桃山時代の作。口造りは端反りで口部はややすぼまっている。腰はやや広がり胴に一本の筋があり、高台(こうだい)はきわめて低い。元来は食器で転用物と考えられる。

難波の補助注記

[ 一 ]の語源については、上代、上町台地の西側のふもとは海に面し、付近の浅海に魚が多いために魚(な)(にわ)と呼ばれたところからとする説、付近の海の潮の流れが速いところから浪速と表記され、浪(なみ)が浪(なに)と読まれたとする説などがある。


なんば【難波】

  1. ( 「なにわ(難波)」の変化した語 )
  2. [ 1 ]
    1. [ 一 ]なにわ(難波)色葉字類抄(1177‐81)〕
    2. [ 二 ] 大阪市中央区・浪速区にまたがり、南海電鉄の難波駅を中心とする地域の通称。近畿日本鉄道・市営地下鉄四つ橋・御堂筋・千日前の各線が通じる。道頓堀・千日前・戎橋筋などを含む、いわゆる大阪ミナミの繁華街として発達。
  3. [ 2 ] ネギを用いた料理にいう語。難波煮、難波漬などがある。また、「南蛮」の字をあてて呼ぶようになったものもある。

難波の語誌

→「なんばん(南蛮)」の語誌

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日本歴史地名大系 「難波」の解説

難波
なにわ

上町うえまち台地を中心とする地域をいう。「古事記」「日本書紀」「万葉集」など、多くは難波と表記するが、浪速(記紀)・浪花(紀)、名庭・奈尓波・那尓波(万葉集)などとも書く。近世には浪華・浪花と表記することもある。地域の範囲は明確ではないが、「難波(浪速)国」の語が、「日本書紀」神武天皇即位前紀戊午年二月条や「万葉集」巻三、年未詳写成唯識論掌中枢要校正注文(正倉院文書)などにみえる。一方、「摂津国風土記」逸文に「住吉国」がみえるので、おおむね摂津国東生ひがしなり西成にしなり両郡の地を難波の範囲としてよかろう。地名の起源については、「日本書紀」神武天皇即位前紀に「皇師遂に東にゆき(中略)、方に難波碕に到る。奔き潮有りて太だ急なるに会ふ。因りて以て、名づけて浪速国と為す。亦浪花と曰ふ。今難波と謂ふは訛れるなり」とある。潮流が速いので浪速といったというのだが、大阪湾の潮流はそれほど速くないため、この説は信じがたいとする意見が強く、ナニハは魚庭なにはの意で、魚の多い所から生れた名称とする説が出された。しかし近年、古代の大阪平野の内陸部には大きな潟湖が存し、それと大阪湾とをつなぐ水路の流れが、潮の干満によって急流となることから浪速の地名が生じたとして、「日本書紀」の所伝を復活してよいとする説もある。またナニハはナミ(波)ニハ(庭)のつづまったもので、波静かな海面をいうとする説もある。これには大阪湾を静かな海面とする意見と、かつて内陸部に存在した潟湖をいうとする意見とがある。このほか、朝鮮語のナルが太陽を意味するところから、太陽を祀る神聖な場所をさすナルニハがつづまって、ナニハとなったとする説も出されている。

難波の地は、淀川と近世につけかえる以前の大和川とがここで合流して、大阪湾に注ぎ、河口には難波津とよばれる良港が発達したため、古代以来交通の要衝として発達した。「日本書紀」によると、応神天皇二二年に難波の大隅おおすみに皇居が置かれ、次の仁徳天皇は難波高津たかつ宮を皇居として、治世八七年に及んだという。所伝のすべてが事実ではあるまいが、五世紀代の大古墳が難波に近い和泉北部や河内中部に多数存することなどを考えあわせると、四世紀末ないし五世紀前半頃、一時難波地方に強大な政権が存したのではないかと思われる。なお仁徳天皇は、淀川の茨田まんだ堤の築造や難波の堀江なにわのほりえの開掘など水利の大工事を行ったと伝えられる。五世紀後半以降は皇居はおおむね大和に設けられたが、六―七世紀に朝鮮や隋・唐との交渉が盛んになるにつれ難波の重要性は再び高まる。

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改訂新版 世界大百科事典 「難波」の意味・わかりやすい解説

難波 (なにわ)

現在の大阪市の上町台地北半部を中心とする地域の古称。おおむねもとの摂津国東成,西成両郡の地にあたる。淀川と近世につけかえる以前の大和川とが合流して大阪湾に注ぐ地をふくみ,古代以来交通の要衝として栄え,いまに至る。《日本書紀》では神武天皇が日向より東征して〈難波之碕に到る〉とあるのが初見。その条に,潮が急なので浪速国といい,また浪花ともいったとある。《古事記》も神武天皇条では〈浪速之渡〉とするが,それ以外では難波と記す。〈なにわ〉の語源には,上記《日本書紀》説以外に魚庭(なにわ)(魚の多い所)と解する説もある。浪速(花)之渡は難波済(《日本書紀》),難波之大渡(《古事記》)とも書かれるが,難波津と書くのが普通である。その位置については諸説あるが,上町台地の西麓から1km余り西の大阪市南区三津寺町(現,中央区心斎橋筋など一帯)付近とするのが有力である。《続日本紀》の御津村,《行基年譜》の御津村,津守村は難波津に接する村であろう。三津寺町の北に西本願寺津村別院があり,南に湊町があるのも,古い地名と思われる。難波津と淀川本流の天満川とは水路で通じ,津に入港した船は仁徳皇后磐之媛(いわのひめ)の伝説の語るように淀川を,また大和川をさかのぼることができたであろう。

 難波の地に最初に置かれた皇居は,応神天皇の大隅(おおすみ)宮で,つぎの仁徳天皇は難波の高津宮を皇居とし,治世87年に及んだと伝えられる。仁徳は治水に努め,難波の堀江を掘ったという。仁徳朝のことかどうかは不明だが,水害を避けるために水路が掘られたことは事実であろう。その堀江についても諸説があるが,天満川のこととする説が有力である。5世紀後半以降は皇居はおおむね大和に設けられたが,6~7世紀に朝鮮や隋・唐との交渉が盛んになるにしたがい,難波の重要性はふたたび高まる。継体朝に難波館が設けられ,安閑朝に難波屯倉(みやけ)が置かれ,欽明天皇は難波祝津(はふりつ)宮に行幸し,推古朝以降,遣隋使,遣唐使は難波津より発着した。また推古朝には難波に四天王寺が建立され,613年(推古21)に難波と飛鳥京を結ぶ大道が置かれ,外客接待のための大郡(おおごおり)や三韓館も難波に設けられたという。645年(大化1)中大兄皇子らは蘇我氏を滅ぼした後,孝徳天皇を擁立して都を難波に移して難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮を営んだ。孝徳天皇の没後,都は大和へかえったが,天武朝には679年(天武8)に羅城を築き,683年に飛鳥の都のほか難波にも都を造ることが詔された。その都は3年後に火災で焼失したが,その後再興され,聖武朝にほぼ完成し,難波への遷都の詔が発せられたこともある。このようにして奈良時代には難波の地は大いに栄え,橘諸兄(もろえ)その他の貴族の邸や,東大寺,大安寺,法隆寺など諸寺の荘が置かれ,難波の市も繁盛した。大宝令の制では摂津職が置かれ,難波の市と津を管理した。しかし784年(延暦3)の長岡遷都により難波の政治的地位は低下し,また淀川と神崎川の接続により難波津の繁栄は両河の分岐点にある江口に奪われ,793年に難波宮は停止された。そののちも平安時代の貴族は四天王寺の参詣や熊野参詣のために難波を往復したが,この地は近世に至るまで政治・経済の中心から遠ざかった。
執筆者:


難波 (なんば)

古く難波(なにわ)の地があるが,現在は大阪市中央区南部から,浪速区北東部一帯にまたがる地域の総称。江戸初期の難波村は,いまの西区の一部にもまたがる広い範囲であったが,市街の発展とともにしだいに南方に縮小され,現在は町名として中央区に難波・難波千日前,浪速区に難波中が残されているだけである。江戸時代にはアイ(藍)の栽培が盛んな農村地帯で,阿波藍の濃色用に対する薄色用の難波水藍として知られていた。また隣村木津のあたりまで5,6町の間に,難波市場と呼ばれる朝市が立ち,木津市場の延長をなした。1733年(享保18)幕府の難波御蔵(米蔵)が大阪スタジアム(現,なんばパークス)の地に建てられ,同時に窮民救済を兼ねて難波入堀川が開削された。1884年阪堺鉄道難波~堺間が開通,以来大阪南の玄関口として発展し,南海電鉄,近鉄,地下鉄のターミナルとなり,百貨店,小売店,飲食店が進出,道頓堀,千日前,心斎橋筋とともに〈ミナミ〉の繁華街を形成している。ミナミ地下センター(虹のまち。現,なんばウォーク),ナンバ地下センター(現,NAMBAなんなん),戎橋筋,なんばCITYなどの商店街や,府立体育館,新歌舞伎座などがある。
執筆者:


難波 (なにわ)

能の曲名。脇能物。神物。世阿弥(1363?-1443?)時代からある能。シテは王仁(おうにん)。旅行中の朝臣(ワキ)が摂津の難波に着くと,老人(前ジテ)と若者(ツレ)が梅の木陰を清めているのに出会い,名高い難波の梅について,仁徳天皇と縁の深いことなどを教えられる。老人は,仁徳帝の仁政について詳しく物語り(〈クセ〉),自分は当時百済国(はくさいこく)から来た王仁であると身の上を明かして消える。夜になると,梅の神霊である木花開耶姫(このはなさくやひめ)(ツレ)と王仁(後ジテ)が現れ,姫の舞(〈天女ノ舞〉)に続いて王仁が舞楽(〈楽(がく)〉)を奏し,天下太平を祝福する(〈ロンギ〉)。前場はクセ,後場は楽が中心。ツレがほかの脇能より重視されている。前場のツレは現在若い男として演ずるが,女性として後ヅレと照応させるのが本来の形のように思われる。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「難波」の意味・わかりやすい解説

難波(なにわ)
なにわ

大阪の古地名。浪速、浪華、浪花とも書く。地名の由来は、『日本書紀』(神武(じんむ)天皇即位前紀戊午年)に「皇師遂(みいくさつい)に東にゆく。舳艫相接(ともえあいつ)げり。方(まさ)に難波碕(なにわのさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)ありて太(はなは)だ急(はや)きに会いぬ。因(よ)りて名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(またなみはな)と曰(い)う。今難波(なにわ)と謂(い)うは訛(なま)れるなり」との神話伝承によるが、異説もある。古代の難波は、南北に延びる半島状の上町(うえまち)台地の北部一帯(先端は難波碕)から西、北縁の砂堆(さたい)を占め、東に難波江、西に難波乃海(なにわのうみ)(大阪湾)に接し、水陸交通の要衝をなしていた。そこに難波津の港が栄え、三韓や隋(ずい)、唐の使節を迎えて鴻臚館(こうろかん)が設けられた。また、たびたび皇都としても選ばれ、難波大隅宮(なにわおおすみのみや)(応神(おうじん)帝)、難波高津宮(なにわたかつのみや)(仁徳(にんとく)帝)、祝津宮(はふりつのみや)(欽明(きんめい)帝)や難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)(孝徳(こうとく)帝)、難波宮(天武(てんむ)帝、聖武(しょうむ)帝)などが造営された。中世、難波は衰微したが、台地北端に石山本願寺、ついで大坂城が築造され、以来もっぱら大坂(阪)の名で知られ、一方、難波の名は荘園(しょうえん)名また村名として、現在に残った。

[位野木壽一]


難波(なんば)
なんば

大阪市の中央区、浪速区(なにわく)にわたり、南海電気鉄道難波駅一帯の地。隣接する道頓堀(どうとんぼり)、千日前(せんにちまえ)とともに「ミナミ」と称される繁華街をつくる。1885年(明治18)阪堺(はんかい)鉄道(現、南海電鉄)が開通して以来発展した。現在、近畿日本鉄道や地下鉄も通じ、さらに西側には関西本線(大和路線)のJR難波駅もあり、交通の一大中心地。難波高島屋をはじめ、南に府立体育館、北に新歌舞伎座(しんかぶきざ)などがあり、娯楽街、飲食店街をなし、「なんばシティ」「なんばウォーク(旧称、虹(にじ)のまち)」の地下商店街がある。大阪球場があったが、1998年(平成10)に廃止となり、跡地にはオフィスビルなどの商業複合施設「なんばパークス」がつくられている。

[位野木壽一]

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百科事典マイペディア 「難波」の意味・わかりやすい解説

難波【なにわ】

大阪市付近の古称。浪速,浪華とも書く。仁徳天皇の難波高津宮,孝徳天皇の難波長柄豊碕(ながらのとよさき)宮など,古代の皇居が定められた地。中世からは大坂(大阪)の地名が使われ始め,近世には両者が並称された。
→関連項目安曇江大阪[府]大阪[市]磯長谷難波津物部尾輿

難波【なんば】

大阪市の中央区,浪速区にわたり,南海電鉄本線の起点難波駅を中心とする一帯。百貨店,専門店街,劇場,飲食店などが集まり,大阪ミナミの歓楽街の一部をなす。
→関連項目新地千日前

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「難波」の意味・わかりやすい解説

難波
なにわ

現在の大阪市およびその周辺地域の古称。「浪速」「浪華」とも書く。大化前代には海上交通の要地として栄え,なかでも三韓の朝貢以来,外国使臣接待用として鴻臚館 (こうろかん) が設けられ,朝廷の対外交渉の中心となり,聖徳太子によって四天王寺が建立された。また,短期間ではあったが,たびたび皇居の設置をみた (→難波京 ) 。このような事情から,難波を含む摂津には国司をおかず,摂津職がおかれたが,桓武天皇のとき廃された。この難波が大坂の名で呼ばれるようになったのは,本願寺の蓮如が生玉荘大坂に道場を建ててからのことである。この地はのち豊臣秀吉によって支配され城が築かれたが,豊臣氏滅亡後大坂城代によって支配された。現在の大阪市の難波 (なんば) は,南海電鉄,近鉄,地下高速鉄道のターミナルとなっている。

難波
なんば

大阪市中央区南西部から,浪速区にまたがる繁華街。南海電鉄難波駅付近一帯の地区。明治初期までは近郊農業地帯であったが,1884年阪堺鉄道 (現南海電気鉄道) が開通,翌年の難波駅開設以来,千日前とともに急速に発展し,心斎橋筋や道頓堀と一体となって大阪随一の繁華街「ミナミ」を形成する。現在は近畿日本鉄道線,地下鉄線も集中する一大ターミナルで,劇場,映画館,遊技場,飲食店などが多く,地下は商店街をなす。難波駅周辺から南側は浪速区で,府立体育館を中心に一大スポーツ・アミューズメントセンターが形成されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「難波」の解説

難波
なにわ

現在の大阪地方の旧称
古くから海上交通および西国と中央を結ぶ要衝として栄え,仁徳天皇の高津宮,大化の改新に際し孝徳天皇の難波長柄豊碕宮 (ながらとよさきのみや) ,奈良時代に聖武天皇の難波宮が造営された。律令制では国司に代わって摂津職 (せつつしき) を置いたが793年廃され,国司が置かれた。中世,蓮如 (れんによ) が道場(石山坊,のち石山本願寺)をたて,その寺内町が近世大坂の母体となった。

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世界大百科事典(旧版)内の難波の言及

【上町台地】より

…古河内湾が河川堆積物によって縮小し,さらに潟湖から湖沼へと変化する弥生時代,古墳時代においても,高燥な台地とその西と北に発達した砂堆は安定した生活の場を提供しており,数多くの古墳や貝塚遺跡が見られる。古代難波(なにわ)の中心はこの台地で,難波宮をはじめ四天王寺,住吉大社などの社寺が造営され,また中世から近世にかけては石山本願寺と大坂城が建設された。現在は官公署,文教施設が集中し,高級住宅も立地する大阪の山手地区となっている。…

※「難波」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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