精選版 日本国語大辞典 「難波」の意味・読み・例文・類語
なんば【難波】
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難波の地は、淀川と近世につけかえる以前の大和川とがここで合流して、大阪湾に注ぎ、河口には難波津とよばれる良港が発達したため、古代以来交通の要衝として発達した。「日本書紀」によると、応神天皇二二年に難波の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
現在の大阪市の上町台地北半部を中心とする地域の古称。おおむねもとの摂津国東成,西成両郡の地にあたる。淀川と近世につけかえる以前の大和川とが合流して大阪湾に注ぐ地をふくみ,古代以来交通の要衝として栄え,いまに至る。《日本書紀》では神武天皇が日向より東征して〈難波之碕に到る〉とあるのが初見。その条に,潮が急なので浪速国といい,また浪花ともいったとある。《古事記》も神武天皇条では〈浪速之渡〉とするが,それ以外では難波と記す。〈なにわ〉の語源には,上記《日本書紀》説以外に魚庭(なにわ)(魚の多い所)と解する説もある。浪速(花)之渡は難波済(《日本書紀》),難波之大渡(《古事記》)とも書かれるが,難波津と書くのが普通である。その位置については諸説あるが,上町台地の西麓から1km余り西の大阪市南区三津寺町(現,中央区心斎橋筋など一帯)付近とするのが有力である。《続日本紀》の御津村,《行基年譜》の御津村,津守村は難波津に接する村であろう。三津寺町の北に西本願寺津村別院があり,南に湊町があるのも,古い地名と思われる。難波津と淀川本流の天満川とは水路で通じ,津に入港した船は仁徳皇后磐之媛(いわのひめ)の伝説の語るように淀川を,また大和川をさかのぼることができたであろう。
難波の地に最初に置かれた皇居は,応神天皇の大隅(おおすみ)宮で,つぎの仁徳天皇は難波の高津宮を皇居とし,治世87年に及んだと伝えられる。仁徳は治水に努め,難波の堀江を掘ったという。仁徳朝のことかどうかは不明だが,水害を避けるために水路が掘られたことは事実であろう。その堀江についても諸説があるが,天満川のこととする説が有力である。5世紀後半以降は皇居はおおむね大和に設けられたが,6~7世紀に朝鮮や隋・唐との交渉が盛んになるにしたがい,難波の重要性はふたたび高まる。継体朝に難波館が設けられ,安閑朝に難波屯倉(みやけ)が置かれ,欽明天皇は難波祝津(はふりつ)宮に行幸し,推古朝以降,遣隋使,遣唐使は難波津より発着した。また推古朝には難波に四天王寺が建立され,613年(推古21)に難波と飛鳥京を結ぶ大道が置かれ,外客接待のための大郡(おおごおり)や三韓館も難波に設けられたという。645年(大化1)中大兄皇子らは蘇我氏を滅ぼした後,孝徳天皇を擁立して都を難波に移して難波長柄豊碕(ながらとよさき)宮を営んだ。孝徳天皇の没後,都は大和へかえったが,天武朝には679年(天武8)に羅城を築き,683年に飛鳥の都のほか難波にも都を造ることが詔された。その都は3年後に火災で焼失したが,その後再興され,聖武朝にほぼ完成し,難波への遷都の詔が発せられたこともある。このようにして奈良時代には難波の地は大いに栄え,橘諸兄(もろえ)その他の貴族の邸や,東大寺,大安寺,法隆寺など諸寺の荘が置かれ,難波の市も繁盛した。大宝令の制では摂津職が置かれ,難波の市と津を管理した。しかし784年(延暦3)の長岡遷都により難波の政治的地位は低下し,また淀川と神崎川の接続により難波津の繁栄は両河の分岐点にある江口に奪われ,793年に難波宮は停止された。そののちも平安時代の貴族は四天王寺の参詣や熊野参詣のために難波を往復したが,この地は近世に至るまで政治・経済の中心から遠ざかった。
執筆者:直木 孝次郎
古く難波(なにわ)の地があるが,現在は大阪市中央区南部から,浪速区北東部一帯にまたがる地域の総称。江戸初期の難波村は,いまの西区の一部にもまたがる広い範囲であったが,市街の発展とともにしだいに南方に縮小され,現在は町名として中央区に難波・難波千日前,浪速区に難波中が残されているだけである。江戸時代にはアイ(藍)の栽培が盛んな農村地帯で,阿波藍の濃色用に対する薄色用の難波水藍として知られていた。また隣村木津のあたりまで5,6町の間に,難波市場と呼ばれる朝市が立ち,木津市場の延長をなした。1733年(享保18)幕府の難波御蔵(米蔵)が大阪スタジアム(現,なんばパークス)の地に建てられ,同時に窮民救済を兼ねて難波入堀川が開削された。1884年阪堺鉄道難波~堺間が開通,以来大阪南の玄関口として発展し,南海電鉄,近鉄,地下鉄のターミナルとなり,百貨店,小売店,飲食店が進出,道頓堀,千日前,心斎橋筋とともに〈ミナミ〉の繁華街を形成している。ミナミ地下センター(虹のまち。現,なんばウォーク),ナンバ地下センター(現,NAMBAなんなん),戎橋筋,なんばCITYなどの商店街や,府立体育館,新歌舞伎座などがある。
執筆者:藤本 篤
能の曲名。脇能物。神物。世阿弥(1363?-1443?)時代からある能。シテは王仁(おうにん)。旅行中の朝臣(ワキ)が摂津の難波に着くと,老人(前ジテ)と若者(ツレ)が梅の木陰を清めているのに出会い,名高い難波の梅について,仁徳天皇と縁の深いことなどを教えられる。老人は,仁徳帝の仁政について詳しく物語り(〈クセ〉),自分は当時百済国(はくさいこく)から来た王仁であると身の上を明かして消える。夜になると,梅の神霊である木花開耶姫(このはなさくやひめ)(ツレ)と王仁(後ジテ)が現れ,姫の舞(〈天女ノ舞〉)に続いて王仁が舞楽(〈楽(がく)〉)を奏し,天下太平を祝福する(〈ロンギ〉)。前場はクセ,後場は楽が中心。ツレがほかの脇能より重視されている。前場のツレは現在若い男として演ずるが,女性として後ヅレと照応させるのが本来の形のように思われる。
執筆者:横道 万里雄
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…古河内湾が河川堆積物によって縮小し,さらに潟湖から湖沼へと変化する弥生時代,古墳時代においても,高燥な台地とその西と北に発達した砂堆は安定した生活の場を提供しており,数多くの古墳や貝塚遺跡が見られる。古代難波(なにわ)の中心はこの台地で,難波宮をはじめ四天王寺,住吉大社などの社寺が造営され,また中世から近世にかけては石山本願寺と大坂城が建設された。現在は官公署,文教施設が集中し,高級住宅も立地する大阪の山手地区となっている。…
※「難波」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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