北浜浦(読み)きたはまうら

日本歴史地名大系 「北浜浦」の解説

北浜浦
きたはまうら

[現在地名]徳島市沖浜町おきのはまちよう・沖浜一―二丁目・沖浜東おきのはまひがし一―二丁目・富田橋とみだばし七―八丁目・西二軒屋町にしにけんやちよう二丁目・南二軒屋町みなみにけんやちよう一丁目・城南町じようなんちよう一―三丁目・南二軒屋町・八万町はちまんちよう

山城屋やましろや浜の西にある。北は東流する御座船ござぶね川を境に富田浦から勢見せいみ山・香留かとめ山に及び、西は下八万村中津浦なかつうら、南は南浜浦。往時一帯浅海洲嶼となり、下八万村えびす山西御座ござ山の下で三条さんじよう川から分流した河川恵解山下えげやました石井利いしいりを経て二つ山ふたつやまの北(現八万中学校付近)を東に流れ、山越やまごし麦塚むぎづかの間から神成の南を中道なかみちに抜けて、のちの山城屋浜境の祇園ぎおんふちに吐き出す御座ござ(現廃川)によって北浜・南浜に分れる低湿地であった。

慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に北浜とみえる。正保国絵図では北浜浦とみえ、高四四石余。慶安三年(一六五〇)検地帳(八万村史)では高三五一石余、田一九町八反余・畠六町八反余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方三九石余・畠方五石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では三四九石余が蔵入地。宝永三年(一七〇六)の検地帳(八万村史)では高六三九石余、田二四町八反余・畠一四町三反余と増となっている。現在でも八万町新貝しんがい地先の園瀬そのせ川沿いの五輛ごりように明和六年(一七六九)に下八万・北浜・南浜・富田浦の四ヵ村浦が共同して設けた園瀬井利やその後に造られた井堰などにより利水が図られたことによるのであろう(同書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android