富田浦
とみだうら
[現在地名]徳島市昭和町四―七丁目・中昭和町二―四丁目・南昭和町二―四丁目・万代町四丁目・かちどき橋一―六丁目・明神町一―六丁目・富田橋一―八丁目・伊月町一―六丁目・秋田町一―六丁目・栄町六丁目・鷹匠町六丁目など
南東流する新町川下流部右岸から西方眉山東麓に至る広い範囲を占める。元久元年(一二〇四)九月に立券された奈良春日社領富田庄の遺称地(「富田庄立券状案」春日大社文書)。徳島城下の南半は当浦のうちに成立し、新町地区・寺町のほか大部分は武家地の西富田・東富田に割かれた(文化六年「名東郡富田浦分間絵図」県立図書館蔵)。慶長二年(一五九七)の分限帳によれば名東郡富田のうち二〇石が渭山にあった龍王(現在国瑞彦神社へ合祀)領となっていた。慶長年間のものと推定される国絵図には「とミ田」のほかに「中その」がみえ、これもその後当浦に含まれたと考えられる。正保国絵図に富田浦とみえ、高四二八石余。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方二六九石余・畠方一五四石余。天和二年(一六八二)の蔵入高村付帳では蔵入高四四二石余。文化三年(一八〇六)の名東郡中地高物成調子帳(四国大学凌霄文庫蔵)によれば富田組に属し、高六三八石余は一円蔵入地で、この物成二三四石余、外米三六石余。
富田浦
とんだうら
海域は北方瀬戸崎より南方市江崎(現日置川町)に至る沿岸三里。慶長一六年(一六一一)の加太浦より錦浦迄加子米究帳(栗本家蔵)によれば、富田浦の加子役数は六〇人、代納升高七二石で、浦を構成する中・芝・高瀬の三村はそれぞれ検地を受けているが、加子役は浜続きの三村へ一括して賦課されている。のち市江崎の北にある朝来帰浦が富田浦に包含され、加子米は各村別に課せられた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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