北金津町(読み)きたかなづまち

日本歴史地名大系 「北金津町」の解説

北金津町
きたかなづまち

[現在地名]金津町天王てんのう水口みずぐち脇出わきで春日かすが十日とおか八日ようかさかしも

北陸街道と竹田たけだ(金津川)の交差する辺り、竹田川の北岸に沿って東西に細長く発達した宿場集落で、「越前国名蹟考」によれば江戸時代後期には水口町十日町・八日町・坂下さかのしも町・桜井さくらい町・岩井いわい町・たて町・藤川ふじかわ町・千束せんぞく町などに分れていた。

北金津町の名は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえるが、「大乗院寺社雑事記」の文明一二年(一四八〇)八月三日条に挿入されている絵図の注記に「金津ハ河口・溝江・坪江下郷与入(組)也」とある。同図では鳴鹿なるか(金津川をさすか)の南に「溝江郷金津」とあり、その北、すなわち当地域は坪江つぼえ上郷と同下郷の中間になる。しかし当地の八日市(八日町の前身)水口の春日社が坪江下郷に属したことは大乗院文書中にみえるから、当時、北金津の大部分は興福寺領坪江下郷に含まれていたことがわかる。八日市は永仁五年(一二九七)の坪江下郷の検注記録(大乗院文書)中に成就じようじゆ院の支配地として記されているが、「大乗院寺社雑事記」の寛正五年(一四六四)八月一三日条には「坪江郷之内八日市新関代官事、被仰付井藤条不可然、可有停止云々、予返事、坪江八日市事、何共不学語(覚悟)者也、新関有無地下へ可相尋之由仰了」とあり、同じく翌年六月一三日条には「坪江郷就直務、明日承仕円勝・仕丁友貞坪江エ可下向旨申入之、為御礼参申了、内田名・八日市別納方也、寺門分ニ不可混乱之由、巨細仰納所了」と記され、八日市を含めた坪江郷を代官支配とするか直務とするかといった問題が起こっていたことを示す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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