千国庄(読み)ちくにのしよう

日本歴史地名大系 「千国庄」の解説

千国庄
ちくにのしよう

北安曇郡の北半、南は佐野坂さのざかから北は長野・新潟両県境までのひめ川流域の現小谷おたり村・白馬はくば村を千国庄の範囲とし、南北およそ三四キロにわたる。

吾妻鏡」の文治二年(一一八六)三月条に、知行国内諸庄の未済年貢の備進を督促させた記事の中に「六条院千国庄」と記されているのを千国庄の初見とする。この六条院は、白河上皇が長女郁芳門院内親王御所にあてるため新造されたものであるが、嘉保三年(一〇九六)に内親王の死去によりこれを御堂とし六条院と改め、これに多くの荘園を寄進したものが六条院領であるが、その中に千国庄が属していた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む