朝日日本歴史人物事典 「小笠原持長」の解説
小笠原持長
生年:応永3.6.22(1396.7.27)
室町時代の武将。長将を父として京都四条館に生まれる。母は幕府有力者畠山持国のもと妻。右馬助,民部大輔,大膳大夫,信濃守。大塔合戦で大文字一揆らと戦ったことで有名な叔父の長秀が弟の政康に家督を譲る際,「子供がないときには彦次郎(持長)に譲れ」と条件をつけていたため,政康の嫡男宗康と家督を争うことになった。文安2(1445)年,幕府は宗康に家督を相続させたが,持長はこれを不満とし,翌年水内郡漆田原(長野市)の合戦で宗康を討ち取った。しかし幕府の命に背いた持長に家督相続はかなわなかった。その後小笠原氏宗家は伊賀良荘(飯田市)から府中(松本市)へと次第に勢力を伸ばしたが,持長は府中に基盤を置き,その子孫が府中小笠原氏となった。宝徳1(1449)年ごろから享徳1(1452)年ごろまで信濃守護を務めているが,その背景には畠山氏の管領職就任があった。
(笹本正治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報