千栗城跡(読み)ちりくじようあと

日本歴史地名大系 「千栗城跡」の解説

千栗城跡
ちりくじようあと

[現在地名]北茂安町大字白壁字石貝

千栗八幡宮の西四〇〇メートル、御嶽みたけ山跡の約二・四ヘクタールの区域が城跡である。採土のため、御嶽山は削り取られ、もとの城跡も失われた。

千栗城は建武三年(一三三六)足利尊氏の部将小俣道剰の築城に成ると伝えられる。尊氏は東上に際して、一色範氏(道猷)を博多にとどめて鎮西探題とし、綾部あやべ(現中原町)と千栗城を築いて南方菊池方に対する押えとした(歴代鎮西要略)。同年、筑後の菊池勢を討つため上野頼兼が肥前の兵を率いて千栗城に入り、ここを根拠として筑後で戦った。以後、探題(武家方)と菊池(宮方)とで千栗城の争奪となる。のち一時廃城となったと思われるが、千栗八幡宮の社伝によれば、応永(一三九四―一四二八)の頃、大宰少弐頼澄の甥、出雲兵部少輔頼資という者が、城を修理し、代々千栗八幡宮の祠人として、かつ武事に従事していたが、慶長(一五九六―一六一五)の頃、佐賀に移り、廃城となったという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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