千石村(読み)せんごくむら

日本歴史地名大系 「千石村」の解説

千石村
せんごくむら

[現在地名]松山町千石

鳴瀬なるせ川中流南岸にあり、南部は丘陵地で北部に水田が開ける。東は金谷かなや村・北窪きたくぼ村、西は次橋つぎはし村、北は鳴瀬川を隔てて青生あおう(現遠田郡小牛田町)、南は広長ひろなが村・大迫おおばさま(現鹿島台町)。古代末以来長世ながせ保・松山庄に属したため郡外であったが、寛永一七年(一六四〇)の総検地後、志田郡南方みなみかた松山郷一四ヵ村の一村となる。中世末から近世の千石城(松山城)上野うわの館を中心とする城下町。一四世紀初頭のものと推定される文書断簡(金沢文庫古文書)に「田中入道之在所之間事、長世保内千石郷に居住之条勿論候。千石彦三郎惣領にて候」とあり、村内には永仁二年(一二九四)、嘉元二年(一三〇四)、延慶二年(一三〇九)など四基の板碑がある。「伊達世臣家譜」によれば、応永八年(一四〇一)文覚上人の後裔と称する遠藤出羽守盛継が千石城に来住して松山庄を支配したという。遠藤氏は以後七代二〇〇年にわたり千石城を居城とした。天文七年(一五三八)の伊達氏の段銭古帳の「松山之庄」のうちに遠藤氏の一族と思われる「遠藤すけ三郎分」として「壱〆五百文 三千苅 セんこくの内」とある。


千石村
せんごくむら

[現在地名]上市町千石

上市川の最上流に位置する。当地で千石川と小又こまた川が合流し上市川となる。正保郷帳では高五一石余、田方二町九反余・畑方五反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高五五石、免四ツ一歩、小物成は山役一〇五匁・蝋役六匁、鮎川役一匁(出来)・臼木呂役二一匁(出来)である(三箇国高物成帳)。享保一八年(一七三三)の百姓家数三四・頭振家数四(「村廻帳」川合家文書)。宝暦年間(一七五一―六四)の家数三五(「高免家数書上」松岡家文書)。所属組は三日市みつかいち村に同じ。


千石村
せんごくむら

[現在地名]羽咋市千石町

福水ふくみず村の東、神子原みこはら村の南、碁石ごいしヶ峰南西麓の山地と丘陵に立地。村名は越中国住人千国氏が領したことに由来するとも(能登志徴)、千石の大豆を収穫した千石長者伝説に由来するともいう(羽咋郡誌)。正保郷帳では高一九三石余、田方六町九反余・畑方六町。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二一一石、免四ツ七歩、小物成は山役六三匁・苦竹役四匁、鳥役六匁(出来)であった(三箇国高物成帳)


千石村
せんごくむら

[現在地名]小矢部市千石

嘉例谷かれいだに村の南の山間村市谷いちのたに村・はちたに(現石川県津幡町)への道が通る。もと千国氏にちなみ千国と書いたとされる(越中志徴)。元和五年(一六一九)の家高新帳に「せんこく」とみえ、役家数五、峠組に属する。正保郷帳では高一一三石余、田方二町四反余・畑方五町一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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