日本歴史地名大系 「羽咋市」の解説 羽咋市はくいし 面積:八一・五八平方キロ県の中央部北寄り、能登半島の基部西側に位置し、北東部の眉丈(びじよう)山丘陵地と南東部の石動(せきどう)山系の山地に挟まれた邑知(おうち)地溝帯(邑知低地帯)に立地する。北は志賀(しか)町・鹿西(ろくせい)町・鹿島(かしま)町、東は富山県氷見市、南は志雄(しお)町に接し、西は日本海に臨む。東境は碁石(ごいし)ヶ峰(みね)県立自然公園、西の千里浜(ちりはま)砂丘海岸は能登半島国定公園に含まれる。中央の邑知潟は長曾(ながそ)川・飯山(いのやま)川・吉崎(よしさき)川などが流入、同潟から羽咋川となり南西流して日本海に注ぐ。西部をJR七尾線が通り、南羽咋・羽咋・千路(ちじ)の三駅がある。東部を国道一五九号、海岸沿いに国道二四九号と能登有料道路が抜ける。〔原始・古代〕北陸でも早くから開けた地域であったが、稲作を伴う弥生時代以降において著しいものがある。とくに羽咋川や長者(ちようじや)川・子浦(しお)川下流域の沖積地に弥生集落が多く、なかでも吉崎(よしさき)・次場(すば)遺跡(国指定史跡)は、中期初頭頃から後期にかけての大型集落跡として著名である。古墳時代に入ると、羽咋国造(羽咋君)の本拠地として重要な位置を占め、羽咋古墳群・柳田(やないだ)古墳群・滝(たき)古墳群・柴垣(しばがき)古墳群・福水円山(ふくみずえんやま)古墳群などが形成される。発掘されたものには、組合せ式箱形石棺から短甲・刀剣などが出土した柴垣円山(しばがきまるやま)一号墳(中期円墳)や、後期横穴式石室を検出した柳田山伏山(やないだやまぶしやま)古墳(前方後円墳)が知られる。奈良・平安時代には、邑知地溝帯に臨む砂丘内陸側に大規模な寺家(じけ)祭祀遺跡が出現し、海獣葡萄鏡・三彩陶器・ガラス椀片・金銅製品など多彩な祭祀関係遺物類を出土している。また、この頃から滝・柴垣などの海岸で盛んに塩生産を行っているが、とくに滝E遺跡・F遺跡の発掘調査では奈良時代に属する塩田跡や炉跡が検出され、わが国最古の揚浜塩田として話題になった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「羽咋市」の意味・わかりやすい解説 羽咋〔市〕はくい 石川県能登半島の基部,邑知潟 (おうちがた) 平野の南西部にある市。東は富山県に接する。西部は日本海沿いの海岸砂丘,東部は宝達丘陵が占める。 1954年羽咋町と上甘田 (かみあまだ) ,一ノ宮,越路野,富永,粟ノ保,千里浜の6村と,下甘田村の一部が合体,56年,さらに邑知町と余喜 (よき) ,鹿島路両村が合体し,58年市制。市名は古代の郡名による。能登の出入口にあって市街は早くから開け,第2次世界大戦前からの絹,人絹の機業のほか鋳物工場も立地。農業は米を中心に果樹,野菜などの栽培が行われている。市内には歴史的建造物も多く,能登一宮の気多 (けた) 神社と前田家の建立による妙成寺では,多数の建物が重要文化財に指定されている。ほかに永光 (ようこう) 寺,豊財 (ぶざい) 院にも多くの重要文化財が伝わる。また,羽咋神社の例祭唐戸山神事相撲 (9月 25日) ,気多神社の例祭おいで祭 (3月 17~23日) ,鵜祭 (12月 16日) などの伝統行事が盛ん。海岸には千里浜 (ちりはま) のなぎさドライブウェー,柴垣の海水浴場などがあり,海岸線一帯は能登半島国定公園に属する。市域西部の気多神社社叢は天然記念物。吉崎・次場 (すば) 遺跡は史跡。 JR七尾線,能登道路,国道 159号線,沿岸部を 249号線が走る。面積 81.85km2。人口 2万407(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by