南品川猟師町
みなみしながわりようしまち
[現在地名]品川区東品川一丁目
目黒川河口の砂嘴にできた集落で、明暦元年(一六五五)に誕生。南北の長さ三町二〇間余、東西二〇間ほどの細長い地域で、兜島とよんで人家のなかったところであった。この地に南品川宿三町目に居住していた漁師が移住させられて成立した純漁村で、洲崎と俗称された。移住の原因は明暦元年の朝鮮通信使通行の際、伝馬役を断ったことから宿内の居住が許されなかったためである(風土記稿)。元禄郷帳に猟師町とみえ、「南品川町之枝郷」の注記がある。高九石三斗余。天保郷帳・旧高旧領取調帳には記載はなく、南品川宿に含まれている。天明三年(一七八三)の南品川宿村鑑書上帳(利田家文書)によると家数九二・人数三六九(男二一八・女一五一)、田畑はいっさいなく、屋敷高九石三斗余。「風土記稿」では家数一三五、ほかに髪結床番屋一、猟船八五。高札場一・御上り場一・物揚場一、網干場(長さ八〇間・横一三間余、年毎の永一七文余)がある。猟船はすべて川船改の極印を得ていて年貢は免除。高札場は町の入口にあり、浦高札が掲げられていた。正徳二年(一七一二)の添浦高札が現在寄木神社に保管されており、区立品川歴史館には密貿易を禁じた同四年の添浦高札が残る。町名主は大島家が単独世襲名主であったが、文化年間(一八〇四―一八)に江戸麹町より移転してきた松本氏が名主株を譲り受けて幕末まで世襲した(品川町史)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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