猟師町
りようしまち
[現在地名]宮津市字漁師・字猟師
近世に猟師町と称した地域のうち、現字漁師の猟師町は西隣の幹町川向町分に属し、現字猟師の猟師町は旧城下周辺に散在して在方に属した。
京極高広の宮津城下町形成以前に、海浜の漁師がどこに住んでいたかは定かでないが、慶長七年(一六〇二)の下宮津検地帳(筑波大学蔵)には多くの「れうし」何某があがっている。
近世宮津の漁師は慶長五年田辺(現舞鶴市)籠城の際、細川藤孝を助けて田辺へまもり送った褒美として「長刀一柄波打際三間御領内勝手次第立働き御免之御書頂戴」したと伝えるが(宮津旧記)、京極氏築城以前の猟師町の位置はつまびらかでない。
京極氏により城下町が完成した時は、猟師町は現字漁師の地に定まっており、藩の御舟屋敷もここに置かれた。
猟師町
りようしまち
桑名城下の東にあり、北および東は揖斐川に面する。東西三条、南北一〇条余の小路があり、人家が密集し、俗に猫飛び町とよばれる。西北の一番組から東南の六番組まで六区に分れる。江戸時代は桑名藩領。正徳三年(一七一三)に赤須賀新田の北に新しい街区を開発し、それまで同新田で漁業に従事していた住民が移住、猟師町と称した。
猟師町
りようしまち
[現在地名]大津市中央三―四丁目
玉屋町の東にある中町通の両側町。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では家数五八、町の西端に番所があり、その前に池が描かれる。天保の改革で解散された材木仲間は安政元年(一八五四)再興しているが、当時の材木屋総代は当町の玉屋重兵衛であった(大津市志)。天保一〇年(一八三九)治安対策のため「堺川町猟師町上ル境門木戸」など六ヵ所の木戸門以外は夜一〇時以降締切ることにした(丸屋町自治会共有文書)。
猟師町
りようしまち
[現在地名]本荘市猟師町
後町の西にあり、肴町の北、子吉川寄りに隣接する。北に子吉川の三角州に形成された中島があった。以前は薬師町とよんだという(羽陰温故誌)。
猟師町には真宗大谷派超光寺があり、東本願寺末寺で文明五年(一四七三)松ヶ崎村に開基創建、慶長三年(一五九八)境内に松林寺を建立、同四年同じく専念寺を建立し、元和年間(一六一五―二四)三寺ともにこの町に移ったと伝える。
猟師町
りようしまち
[現在地名]滑川市三穂町
中川の河口東岸に位置し、北は富山湾に臨む。南は大町。滑川町の浦方を形成していたと考えられる。天正(一五七三―九二)以前より猟師たちが五、六軒ばかり住みつき、俗に猟師共と称していたが、のちに大町の北裏に位置するところから大町の浜と通称され、元禄三年(一六九〇)の大火後に漁業に従事する人家が増加したと伝える(「滑川町誌」など)。
猟師町
りようしまち
[現在地名]高砂市高砂町猟師町
田町の南にあり、高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、東は西宮町から西は南本町までの東西に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数四五・竈数五一・店借一一、人数二〇二、うち田地持一(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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