南新保村(読み)みなみしんほむら

日本歴史地名大系 「南新保村」の解説

南新保村
みなみしんほむら

[現在地名]金沢市南新保町・三浦町みうらまち

直江なおえ村・大友おおとも村の南に位置し、南は西念新保さいねんしんほ村。中世には倉月くらつき庄の内。文明八年(一四七六)一一月四日、幕府は摂津之親知行分である倉月庄のうち「南新保西方」において西郡四郎と結んだ一向一揆による違乱を禁じている(「室町幕府奉行人奉書」足水家文書)。また翌年一〇月一五日には延暦寺の違乱を制し、明応二年(一四九三)一二月二九日には之親の子政親の訴えをいれて西郡四郎の押領をとどめている(「室町幕府奉行人奉書」美吉文書)


南新保村
みなみしんぼむら

[現在地名]長岡市南新保町

福道ふくみち村の南。口碑では戦国期に長部氏の祖板橋伝兵衛・石橋甚五兵衛らが真宗西照さいしよう寺に従って信濃国北原きたはらより兵禍を避けて越後に来て新保村(現三島郡三島町)の地に一同居住したが、その後西照寺は上岩井かみいわい(現同上)に移り、長部氏らは南新保の地に移って農家を営んだという。天正村名考(温古之栞)に「南の新保八軒」と伝える。移住当時は現在の位置より南西にあたる神明社西方の畑地にあったが、隣村福道村がしだいに人口が増加するにつれ、江戸時代中頃に現在地に移ったという。


南新保村
みなみしんぼむら

[現在地名]上越市南新保

荒屋あらや村の東に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「御料所窪田扱此外九方分新保村」とみえ、本納四七石五斗一合四勺・縄高七二石一斗一升二合九勺、家五軒・一七人。同絵図には当新保村の隣に同じく新保村(北新保村)が描かれているが、両新保村の間に郷境が描かれており、当村は津有つあり郷に含まれ、もう一つの新保村は美守ひだもり郷に含まれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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