倉月庄(読み)くらつきのしよう

日本歴史地名大系 「倉月庄」の解説

倉月庄
くらつきのしよう

蔵月庄とも書く。浅野川と金腐かなくさり川の下流域で石川・河北かほく両郡にまたがるが、ともに現金沢市域に含まれる。中世の史料には石川郡の青崎あおがさき(粟崎)近岡ちかおか直江なおえ大河縁おこばた大友御供田おおともごくでん南新保みなみしんぽ諸江もろえ諸江破出もろえわりだし安江やすえ河北郡の大浦おおうら中大浦なかおおうら木越きごし松寺まつてら千田せんだ宮保みやほ磯部いそべおき(奥・沖)などのほか現存地名にはない岩方いわかた赤浜あかはま山家散田さんがさんでん供料田くりようでんなどの名がみえる。このうち興保は鎌倉時代には小坂こさか庄に属しており、安江は近衛家領の安江保・安江庄と錯綜した関係にあったとみられる。当庄は北は河北潟に面し、東は井家いのいえ庄、南は小坂庄豊田といた保、西は富積とみつ保・大野おおの庄と境を接していた。

〔伝領〕

「外記日記」弘安一〇年(一二八七)四月一六日条に「今日聞、右近大夫親祐於加州倉月庄他界廿三、去七日云々」とある。親祐は夭折のためか中原(摂津)氏系図にはみえないが、鎌倉幕府問注所執事摂津親致の近親者であろう。鎌倉時代、当庄は中原家の傍流(師任の子、貞親の系統)で師茂・親致・親鑒(道準)に至る系統(摂津家)知行にかかわった。

嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)歓喜光かんきこう(現京都市左京区)領として「加賀国倉月庄地頭津隼人請所、御年貢綿到来、進入御所」とみえ、摂津親鑒地頭職を保有したことが確認でき、当庄と大野庄の境界相論のさい提出された康永二年―貞和二年(一三四三―四六)頃の目安(天龍寺文書)にも「摂津刑部大輔入道導準、為倉月庄領主之時」とある。一方、建武二年(一三三五)一〇月四日の太政官符(色々証文)によれば、建武新政のもとで当庄領家・地頭両職が大外記中原師利に安堵されている。同官符に引用された師利の主張によれば、当庄は師茂・師員・師文らによって開発相伝された私領で、鎌倉幕府引付頭人摂津親鑒が師茂の後胤として相続知行していたが、建武新政により幕府滅亡に殉じた親鑒の旧領は闕所とされたので、中原家の家督を自認する師利が所望するのだという。これは歴代大外記に任じられた中原家の本流の一(師任の子、師平の系統)に属す師利が、師員の子師守(師文の父)の代に親致に至る系統から分れ中原氏に留まって外記を継いだ系統をもちだすことで、中原氏家督として家領回復の正統性を主張したもの。以上から師茂が開発私領倉月庄を歓喜光院に寄進したとき領家職を保有し、師員のとき幕府の補任を得て地頭職を兼帯、師員は師守―師文の系統(中原氏)へは領家職、師連―親致の系統(摂津氏)へは地頭職を譲ったが、領家職も親鑒の代までに摂津氏に吸収されたとも考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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