新保村(読み)しんぼむら

日本歴史地名大系 「新保村」の解説

新保村
しんぼむら

[現在地名]金井町新保

北は西方にしがた村、東は貝塚かいづか村、西は新保川を挟んで本屋敷ほんやしき村・大和田おわだ村、南は国府こうの川を隔てて皆川みながわ(現新穂村)。村域の大部分は国仲くになか丘陵にあるが、国仲平野の沖積地にもひろがる。観応二年(一三五一)六月二七日の筑後守某奉書(本田寺文書)に本間貞忠に安堵された地としてみえる新宮しんぐう保に属した。永享六年(一四三四)佐渡に流された世阿弥は、「金島集」に「その夜は雑太の郡、新保と云ところに着きぬ。国の守の代官受け取りて、万福寺と申小院に宿せさせたり」と記す。現在尾花崎おはなざきの金井小学校南に新保城しんぼじようの地字が残り、この付近に国守の代官の館があったとされる。万福まんぷく寺は現在廃寺となっているが、元禄七年(一六九四)の西方村の検地帳(西方区有)には字うり田に一反余、大柳おおやなぎに二反余の耕地を所有しており、これらの地字は新保川の西にあった。


新保村
しんぼむら

[現在地名]小松市新保町

手取川支流の大日だいにち川上流にあり、白山山系の北西麓南端に位置し、北の下流に須納谷すのだに村がある。白山麓十八ヶ村の一つ。中世は河内かわち大日だいにち、次いで山内やまのうち庄の内。康暦二年(一三八〇)八月二九日の給主忠重充下状写(春木文書)に「宛下候新保内美野太郎作事」とみえ、美野太郎跡の田畠の三分の二を新保の住人妙蓮(美野太郎の子孫)に宛下している。妙蓮は永徳二年(一三八二)にも忠重より美野太郎跡のうち左近次郎持分を宛行われており、その所在は「河内庄大日新保」とあり(同年三月五日「給主忠重充下状写」同文書)、同元年一〇月二八日の給主忠重公事料免除状写(同文書)には「河内庄大日下新保」もみえる。河内庄は白山宮領庄園と推定され、貞和三年(一三四七)には地頭藤原(結城)重宗がみえ(同年五月二日「藤原重宗売券」祇陀寺文書)、以後結城氏が同庄地頭として知られるので、庄務権をもつ給主忠重は白山宮配下の有力者か地頭結城氏の一族と推定されよう。


新保村
しんぼむら

[現在地名]朝日村下新保しもしんぼ

北を三面みおもて川が西へ流れ、南端を北流する長津ながつ川が村の北東で三面川に合流する。西は十川そがわ村、南は大場沢おおばざわ村に接する。上新保かみしんぼ村・下新保村に分けてよばれることもあった。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「鮎川分大国但馬分をき新保村 上」とみえ、本納二二六石八斗三升・縄高三六五石五斗・家三四軒とある。また三面川下流左岸に描かれる「あゆ川分さいがま村 下」は当村の字さいがまに比定され、本納四石二斗九升五合で「是ハ雑穀」、縄高三二石五斗三升五合、家三軒とある。近世は村上藩領。正保国絵図に「新保村」とある。享保二年(一七一七)の村明細帳(小田家文書)によれば田三六町八反余・畑屋敷二一町七反三畝余、川除堤二ヵ所・用水川堰一ヵ所がある。当村地内で取水する用水は十川・小川おがわなど四ヵ村で利用し、当村の用水は上流上中島かみなかじま村地内で三面川から取水し引いた。


新保村
しんぼむら

[現在地名]三条市北新保きたしんぼ一―二丁目・北四日きたよつか町・南四日みなみよつか町一丁目・同三丁目・南新保みなみしんぼ東新保ひがししんぼ曲渕まがりふち一丁目・同三丁目・新保

五明ごみよう村の北東、曲渕村の西にあり、北は五十嵐いからし川を隔てていち木戸きど村と接する。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に、山吉掃部(正盛)知行分として新保村がみえる。慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、当時の御領内高付帳(新発田市史資料)では二六六石六斗余。同一〇年の給知方村々高目録(同資料)によれば毛付九五石三斗余・荒三四三石一斗余。また同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によると炉役一石六斗が九軒に課されている。


新保村
しんぼむら

[現在地名]坂井町木部新保きべしんぼ

折戸おりと村の東南、九頭竜くずりゆう川と兵庫ひようご川の堤防に囲まれた鬼辺きべ(木部)輪中内にあり、九頭竜川の右岸に位置する。泥原新保どろはらしんぼ(現三国町)磯部新保いそべしんぼ(現丸岡町)などと区別するため、木部新保村の呼称も用いられたこともあり(享保郷帳)、明治以降木部新保に統一された。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では上木部かみきべ庄に属し、村名は正保郷帳にみえる。同帳によれば田方八八九石・畠方四五三石余。江戸時代を通じて福井藩領。堀越ほりこし(現春江町)兵庫島ひようごしま村・折戸村などとともに兵庫川の清永きよなが井堰から用水を引いていたが、水懸りが悪く、正保郷帳にも「日損所」と記す。


新保村
にいぼむら

[現在地名]長岡市新保町・新保一―五丁目・あら町三丁目・永田ながた一―三丁目・堀金ほりがね三丁目・ゆたか二丁目

長岡町北東郊外にある。北は城岡じようおか新田村・下条げじよう村、東は稲葉いなば村・亀貝かめがい村にまたがり用水を境とする。南は川久保かわくぼ新田・城岡新田村・永田村、西は福島ふくじま江を隔てて新町あらまち村。村内を新町村から東に向かって栃尾往来が貫く。口碑によると、延元(一三三六―四〇)頃、近江国甲賀こうが郡の住人保科六郎なる者が当地に来て、不毛の地を開発したという。天正村名考(温古之栞)に「新穂百八十六軒」と伝えるのが当村で、新穂とも書いている。地名は蔵王権現に新穂(初穂)を献上したことにちなむとの説がある。


新保村
しんぼむら

[現在地名]富山市新保

神通川右岸に位置し、北はあきしま村。中世は徳大寺家領宮河みやかわ庄の庄域に含まれていたと思われる。現新潟県小千谷おぢや魚沼うおぬま神社が所蔵する大般若経巻八四の奥書に至徳四年(一三八七)五月二二日の年紀銘とともに「宮河荘新保 新宝」、同巻八六の奥書には同月二四日の年紀銘とともに「宮河荘新保内三昧田 新宝」とみえる。なおこの大般若経は上杉謙信が越中侵攻の際に七社しちしや明神(現小矢部市長岡神社)から持帰り、越後上弥彦神社(現魚沼神社)に奉納したものという(新編会津風土記)


新保村
しんぼむら

[現在地名]神林村北新保きたしんぼ

日本海沿いに南北に延びる砂丘と松林の東側にあり、東は田中たなか村、南は長松ながまつ村、北は岩船町(現村上市)に接する。延慶二年(一三〇九)の尼如通譲状案写(「古案記録草案」所収文書)にみえる小泉こいずみ色部いろべ条内の「ふくやのしんほ」は当地と福田一帯をさすか。建武元年(一三三四)八月一二日の平長倫申状写(同文書)によれば、色部長倫が一族の本庄持長や大河将長・立島彦三郎らと戦った時、長倫の郎党新保安長の名がみえる。


新保村
しんぼむら

[現在地名]中野市大字新保

東は中野なかの村と篠井しのい村、南は小沼おぬま村、西は江部えべ村、北は西条にしじよう村に接する。

中世はひがし条庄に属し、諏訪社上社との関係が深い。初見は嘉暦四年(一三二九)三月で、鎌倉幕府より諏訪社上社五月会流鏑馬の頭役を次のように課せられている(「鎌倉幕府下知状案」守矢文書)

<資料は省略されています>

寛正―文明年間(一四六〇―八七)頃は高梨氏知行となり、惣領家高梨政高は頭役二〇貫文を納め、主として一族江部氏を代官として勤仕せしめている(諏訪御符礼之古書)


新保村
しんぼうむら

[現在地名]岡山市新保

青江あおえ村の西にあり、西は京殿きようどの村、南は泉田いずみだ村。建久九年(一一九八)一二月の後鳥羽院庁下文(東大寺続要録)に「新堤保」とあり、東大寺領野田のだ庄に南接していた。同保は児島こじま湾に面していた当地一帯に比定される。応永二五年(一四一八)京都東寺の造営棟別銭が備前国に課せられた際に、西御所持分でかたく支え申す在所として「新堤保」がみえる(「備前国棟別銭注文案」東寺百合文書)

寛永備前国絵図に村名がみえ、高一千三九三石余。「備陽記」によると田畑八二町六反余、家数一〇〇・人数四四五。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二千二二五石余、蔵入と家臣一二名の給地。田高一千四七一石余・畑高七九石余、家数九一、うち七二戸が上伊福かみいふく村日蓮宗妙林みようりん寺、一五戸が日応寺にちおうじ村同宗日応寺、他は城下末山すえやま町臨済宗大隣だいりん(二戸)七日市なのかいち村真言宗最城さいじよう(二戸)の檀家。


新保村
しんぼむら

[現在地名]マキノ町新保

西近江路に沿い、北東は知内ちない村。大処おおところ庄の新保と思われる。高島郡内には新保村が二村あったため、北新保村と通称された。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「しんほう」とある。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)によれば、新保村と中庄なかしよう村を合せて一千七五五石余。慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。


新保村
しんぼむら

[現在地名]羽咋市新保町

粟生あお村の南に位置し、西部は千里浜ちりはま砂丘、東部は邑知おうち平野。集落南縁を長者ちようじや川が北流。宝達ほうだつ山の樽見たるみ(現押水町)付近の百姓七軒が夢告により長治―嘉承(一一〇四―〇八)頃当地に移住して開いたという(「八幡神社由緒書」八幡神社蔵)。中世には粟生保の内に分立した粟生新保に属した。同新保は享禄四年(一五三一)七月の一宮惣分目帳案(気多大宮司家文書)に「あわししんほう」とみえ、同社畠地があり、地子二二五文で、作職人は「やなせ」の伊藤三郎であった。


新保村
しんぼむら

[現在地名]赤泊村新保

杉野浦すぎのうら村の北東、北東は柳沢やなぎさわ村、北は大崎おおさき(現羽茂町)と境する。集落は海岸段丘下の海辺に細長く立地。東外れにある高森たかもり神社の寛永三年(一六二六)の棟札に「佐州羽茂郡柏木新保」とある。当地は樫の育ちがよく、高森神社の北側は字かしがだいらとよばれ、今も白樫の自然林がある。柏木新保かしわぎしんぼの名も樫にちなむともいわれる。元禄七年(一六九四)の検地帳(新保区有)によれば田一一町二反余・畑一七町一反余で、近隣の村々のうちでは最も田が多い。


新保村
しんぼむら

[現在地名]内浦町新保

たに村の南東にあり、南東部は海に面する。海岸段丘上の新保遺跡は縄文集落跡で、中期初頭の新保式土器の標式遺跡。昭和二六年(一九五一)試掘で多数の土器片と石鏃・石匙・石錐・磨製石斧・打製石斧・凹石・硬玉製玉類などを採集、とくに小型打製石器の多いことが注目される。正保郷帳に村名がみえ、高二一〇石余、田一一町七反・畑二町三反余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]武生市新保町・しん町・小松こまつ二丁目

大田おおだ村の東、吉野瀬よしのせ川右岸にある。大田村から分村したものか。枝村に芝居しばいがあり(越前国名蹟考)、福井藩領(府中本多氏知行所)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高八四六・四一石が記され、元禄郷帳から新村二六四・四四六石が分れて記される。享和三年(一八〇三)六月の高段別吟味帳(前沢家蔵)によれば、太田新保村として、高五四九・五八八石のうち三〇石は府中惣社領、田方二八町余・四四九石余、畠方四町二段余・六〇石余、屋鋪九段余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]三島町新保

現町域の東端、くろ川の支流菖蒲しようぶ川左岸の沖積地に開けた村。西は中条なかじよう上岩井かみいわい七日市なのかいち、北は大野おおの新田の各村に接する。慶長二年(一五九七)の上杉氏の知行宛行状(覚上公御書集)には「瓜生・中・新保」が福島掃部助の給地となっている。元和六年(一六二〇)長岡藩領、寛政元年(一七八九)には幕府領、所属年代不明であるが会津藩領として幕末に至る。元和六年の長岡藩知行目録に高三八六石六斗余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]小浜市新保

大谷おおたに村の東南にあり、西は竹長たけなが村に対する。中世には宮川みやがわ保に属した。文暦二年(一二三五)六月三日付六波羅御教書(座田文書)に「賀茂社司申、為若狭国宮川新保地頭代、押領当社領宮河庄内」と地名がみえる。村内に「賀茂出作田一町四反八十歩」(若狭国惣田数帳写)があったが、賀茂別雷かもわけいかずち社領の大谷村・矢代やしろ浦ともども地頭にしばしば押領され、寛元元年(一二四三)の国検に際し「国衙之煩」を停止するよう下文が出されている(同年五月七日付「若狭国司下文」尊経閣文庫蔵)

天文一〇年(一五四一)に守護武田元光の子信高が当地の新保山城主となり、宮川保・松永まつなが保を領した。


新保村
しんぽむら

[現在地名]金沢市戸室新保とむろしんぽ

中山なかやま村の東、戸室山の西側山腹に位置。戸室新保村とも称した(高免付給人帳)。永正五年(一五〇八)七月の成立という白山禅頂私記(白山比神社蔵)に、医王いおう山の岩窟に住する泰澄に近侍した臥の行者が、和銅五年(七一二)出羽国から都に米を運ぶ船に鉢を飛ばして布施を求め拒まれたので、船中の俵米や櫓櫂を医王山付近まで飛行させて取寄せたとあり、米俵が着いた所を「俵ラ」、櫓の着いた場所を「飛櫓」と名付けたとみえる。


新保村
しんぼむら

[現在地名]高崎市新保町

東南流する井野いの川中流の左岸際から東方一帯に広がる沖積平野にまたがって所在し、村の中央を染谷そめや川が南流して村内で井野川に合流する。東は西島にしじま村・矢島やじま村など、北は新保田中しんぼたなか日高ひだかの二村。貞治元年(一三六二)一〇月一八日付しゝ大夫旦那職譲状(下屋文書)にみえる「しんほ」は当地か。新保郷百姓中宛の天正一一年(一五八三)四月一八日付北条氏邦印判状写(「反町系図」所収)によると同郷は御料所であった。


新保村
しんぼむら

[現在地名]敦賀市新保

葉原はんばら村の北、標高二五〇―三〇〇メートルの鉢伏はちぶせ山中腹を走る道の両側に位置し、南条郡今庄いまじように通ずる宿駅である。中世は葉原保に属した。永正四年(一五〇七)一〇月二七日付朝倉貞景安堵状(武内家文書)に「新保」とみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では高一千一六二石余、正保郷帳では村切が行われて田方一八六石余・畠方二六石。天和二年(一六八二)小浜藩領より旗本井川領となる。享保一二年(一七二七)には庄屋彦七(持高一九石余)、牛馬銀四五匁、新出来米二七〇匁余、雉札一匁、渋柿二斗六升代米一斗五升余、夫役一ツ、夫米七俵余、馬足二一疋、牡馬一七、牛五、家数四九(うち高持二三・無高二五・寺一)、人数三二二(敦賀郷方覚書)


新保村
しんぼむら

[現在地名]広神村新保・新保新田

破間あぶるま川と羽根はね川の合流する三角地帯に立地。集落の中央で道は五方面に延びる。東は山田やまだ村、西は中島なかじま村、北は今泉いまいずみ村、南は一日市ひといち村、南東は中家ちゆうか村に通じる。正保国絵図に村名がみえ、高一五六石余。高田藩当時、五〇〇石取の東郷左門の所領があった。文久元年(一八六一)の村明細帳(鈴木謙之輔氏蔵)によると、高一六五石六斗余、反別本田一〇町四反余・本畑四町余。宝暦七年(一七五七)・天保一四年(一八四三)に新田畑の検地が行われている。家数三〇、男一〇六・女八一、馬一八。里蝋穂三貫余を上納する。


新保村
しんぼむら

[現在地名]山北町浜新保はましんぼ

くわ川の河口左岸にあり、西は日本海に面する。北は桑川くわがわ村に接する。南の鳥越とりごえ山は笹川流ささがわながれの南端に当たる。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「大国但馬分新保村」とみえ、本納九石六斗・縄高五八石二斗四升一合、家九軒、「此外三拾俵 塩 但壱斗四升入」「馬下村ヨリ新保村ヘ十五里」とある。南に松の生えた岩の岬が描かれる。正保国絵図では高九二石余。南の鳥越山を越えて馬下まおろし(現村上市)へ至る「大鳥越」は海岸沿いの道の難所で、やや安全な十五里じゆうごり峠を越える経路をとる旅人が多かった。


新保村
しんぼむら

[現在地名]富山市水橋新保みずはししんぽ

常願寺川左岸(現在は右岸)沿いの平地に位置し、北東はつじどう村。村の東を北陸街道(巡見使道)が通る。古代末期から中世の新保御厨・新保庄を当地付近とする説がある。明応元年(一四九二)一〇月吉日の針原公文給帳(岩峅寺文書)に立山寺(現立山町)神領として「拾五俵 新保 道幸」とみえるが、これは当地にかかわるものであろう。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高一一三石・免三ツ八歩。天保一一年(一八四〇)まで草高・免に変化はない(「高免帳」杉木家文書)。所属組は畠等はたけら村と同じ。


新保村
しんぼむら

[現在地名]輪島市三井町新保みいまちしんぼ

漆原うるしはら村の南、河原田かわらだ川上流西岸の山間に立地。同川には長さ一〇間・幅七尺の大渡橋があった(能登志徴)。正保郷帳に村名がみえ、高一五二石余、田方七町五反余・畑方二町六反余、新田高二八石余、田方一町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一九一石、免五ツ五歩、小物成は山役一二一匁、鳥役一匁(出来)、漆役二匁・蝋役一匁・炭竈役二六匁(三箇国高物成帳)。用水は興徳寺こうとくじ村と同じたか堰用水を利用したが、水論の結果、安永七年(一七七八)当村は一割の分水と決められた(「高堰用水定書」谷内文書)


新保村
しんぼむら

大字もりの字新保を遺称地とする。金津かなつ庄の内。延徳三年(一四九一)九月に固定化したものを再編した天文五年(一五三六)一一月の金津庄新保村名別公事銭等納帳(賀茂別雷神社文書)によれば、犬丸・国吉・家真・真弘・国久・案守・重里・包清・景房の九名からなる。犬丸名内には公文分が設定され、氏人竹内氏が相伝する得分となっていた(年未詳一一月一一日「金津庄代官親景書状写」北徴遺文)


新保村
しんぼむら

[現在地名]今津町南新保みなみしんぼ

石田いしだ川の河口南岸にあり、南は今津村。高島郡にはもう一村新保村(現マキノ町)があり、そちらを北新保村と称したが、明治初期に当村を南新保村と改称した。文明六年(一四七四)九月八日の福井県武生たけふ国兼くにかね町の八幡やわた神社蔵の鐘の追銘に「善積庄新保村馬尾大明神鐘」とある。天正一五年(一五八七)九月の御蔵入目録(芦浦観音寺文書)に新保とあり、高二一五石余。寛永石高帳に高二六三石余、ほかに七升とあり、幕府領。慶安高辻帳では田方一三五石余・畑方九石、永荒一一八石余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]荒川町南新保みなみしんぼ

岩船郡の南西端に位置し、西を旧胎内きゆうたいない川が北流し、南を流れるからす川が合流する。南は蒲原かんばらきのと(現北蒲原郡中条町)、北は新光寺しんこうじ村に接する。大津の高屋敷おおつのたかやしきに居住し、延命寺の開基といわれる渡辺氏により開発されたと伝え、正平一六年(一三六一)源市太夫の時当地に移住したという。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「色部分新保村 下」とみえ、本納三〇石五斗・縄高一五一石五斗八升五合、家六軒とある。


新保村
しんぼむら

[現在地名]勝山市荒土あらど町新保

滝波たきなみ川と九頭竜くずりゆう川の合流点に位置する勝山街道沿いの集落。西はまつさき村。対岸の比島ひしま村とを結ぶ渡しがあり、比島の渡とも新保の渡ともよばれた(→比島村。村名は天文八年(一五三九)一〇月一八日の平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)にみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図には「新保組」として高一〇六三・九六六石とある。正保郷帳によれば田方三三四石余・畠方一八石余であり、前記国絵図の石高が当村以外のどの村と合石であったかは不明。


新保村
しんぼむら

[現在地名]加賀市新保町

柴山しばやま潟の北にあり、日本海に面する。伝承では延徳元年(一四八九)能美のみ軽海かるみ(現小松市)からの移住者が開いたという。南西の伊切いきり村は寛政六年(一七九四)の御郡之覚抜書(加賀市史料)には新保の出村とされており、幕府へ提出する郷帳類でも新保村に含まれたとみられるが、「江沼志稿」では別記載されている。慶長三年(一五九八)八月五日の小早川秀秋宛行状(萩藩閥閲録)によると、新保村のうち八四石余が国司土佐守に宛行われている。正保郷帳によると高四三二石余、田方一二町八反余・畑方一七町七反余、物成高一四〇石余、ほかに新田高一八九石余(物成高二四石余)、田方一町九反余・畑方一三町一反余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]関川村上新保かみしんぼ

おんな川左岸に位置し、東方で女川と藤沢ふじさわ川が合流する。南は若山わかやま村、北は女川を隔て蛇喰じやばみ村に接する。村上藩主村上頼勝の代に開発されたと伝えるが不詳。万治元年(一六五八)の女川組本田畑検地寄目録(平田家文書)に村名がみえ、高二〇石三斗余、田一町四反二畝余・畑九反五畝余。元禄郷帳には蛇喰村枝郷と記される。村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領。


新保村
しんぼむら

[現在地名]氷見市新保

上庄かみしよう川の中流域、東と北は谷屋たにや村、西は小窪おくぼ村、南は早借はやかし村。正保郷帳の高三七九石余、田方一六町四反余・畑方八町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三六二石・免五ツ、小物成は山役九〇匁・蝋役一匁(三箇国高物成帳)。宝暦一四年(一七六四)の書上(三州旧蹟志)によれば産物は茣蓙。明暦二年(一六五六)の加納組高覚帳(円仏家文書)によれば百姓五九・頭振六。


新保村
しんぼむら

[現在地名]小須戸町新保

小須戸町の東に接し、信濃川の旧自然堤防と考えられる微高地に立地、北は竜玄りゆうげん新田、南は横川浜よこがわはま村。正和二年(一三一三)開発と伝承される(中蒲原郡誌)。慶長三年(一五九八)頃の御領内高付帳(新発田市史資料)に「弐百四石六斗八升 こすと村 新保村」とある。正保国絵図は二七〇石余。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数四〇・人数二〇〇とある。元禄郷帳は三四二石。


新保村
しんぼむら

[現在地名]十日町市新宮しんみや

信濃川へ支流入間いるま川が注ぐ三角地帯にある。野中のなかの集落が南東方に遠く離れて入間川上流部にある。天保郷帳によると、かつては新保村・まき新田・野中新田の三ヵ村。正保国絵図に高一二六石余。元禄七年(一六九四)の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)によると、慶安二年(一六四九)野中新田、明暦二年(一六五六)牧新田が開発されている。


新保村
しんぼむら

[現在地名]新井市上新保かみしんぼ

せき川右岸に位置し、北は西条にしじよう村、南は川上かわかみ村に接する。関川対岸は姫川原ひめがわら村。正保国絵図に高二六三石余とある。天和三年(一六八三)の検地の結果は田方二四三石七斗余・畑方一八石二斗余・色高九石一斗で、ほかに七〇石余の減高があった(水上村誌稿)。宝暦一三年(一七六三)の皆済目録(国立史料館蔵)によれば、高二七一石一斗余に対し、本途見取・口米・六尺給・御伝馬宿として米一〇一石五斗余、大豆一石三斗余、荏胡麻代・小役・川役・口永・御蔵米入用として永三貫三八三文余を納めている。


新保村
しんぼむら

[現在地名]西山町新保

北は黒部くろべ村・和田わだ村、東は坂田さかた村、南は北野きたの村・五日市いつかいち村、西は滝谷たきや(現刈羽村)。天和三年(一六八三)の検地帳(西山町誌)の表紙に「刈羽郡野崎保新保村」とある。元和二年(一六一六)から幕府領、貞享二年(一六八五)から高田藩領、宝永二年(一七〇五)与板藩領、文政元年(一八一八)出羽上山藩領。


新保村
しんぼむら

[現在地名]輪島市上山町かみやままち

うえ村の東、男女滝なめたき川支流黒杉くろすぎ川上流東岸の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高三〇石余、田方九反余・畑方一町余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免五ツ(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三九石、免五ツ三歩、小物成は山役一八匁、鳥役一匁(出来)、漆役二匁(三箇国高物成帳)


新保村
しんぼむら

[現在地名]池田町新保

魚見うおみ川中流南岸、まる山の東麓にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高六三・六七石とある。元禄郷帳で九八石余、天保郷帳で一〇〇石余と増加。これは元禄頃に魚見川の川原を開墾し元禄九年(一六九六)新田高として村付されたからである(池田町史)。享保六年(一七二一)の池田郷中村々明細帳の写(片山家蔵)によれば、反別四町九反余(うち田四町三反余・畠五反余)、新田高二・八二二石、家数一三、人数七五(本百姓四二・水呑三三)、牛四頭。


新保村
しんぼむら

[現在地名]安田町新保

阿賀野川右岸に位置し、北は保田やすだ町、東は渡場わたりば村。正保国絵図に一〇〇石余とあり、村上藩領。寛文一三年(一六七三)の組々村数并高付大庄屋付(大滝家文書)では保田組に属し、貞享元年(一六八四)郷村高辻帳では高一二二石八斗余。宝永七年(一七一〇)幕府領となり、寛政一二年(一八〇〇)の水原代官所村々高書上帳(小田島余吉氏蔵)には一八二石一斗余とあり、いずれも新保組。


新保村
しんぼむら

[現在地名]七尾市新保町

七尾南湾沿いに松百まつとう村の北西に位置する。加賀藩領。正保郷帳に村名がみえ、松百村と一括して高付される。承応二年(一六五三)の役棟四(「棟役調」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高二五二石、免四ツ五歩、小物成として山役一九四匁・苦竹役二匁、鳥役二匁(出来)、油役三匁(出来)がある(三箇国高物成帳)


新保村
しんぼむら

[現在地名]三和村下新保しもしんぼ

島倉しまくら村の東、北代きただい村の南に位置し、村内を桑曾根くわぞね川が西流する。正保国絵図に高一一七石余とある。天和三年郷帳によれば高一九三石四斗余、うち野高九斗・漆高三斗七升。


新保村
しんぼむら

[現在地名]福井市新保町

福井城下北東、勝山街道北側にあり、開発かいほつ村の東に位置する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図でははやし之郷に含まれる。正保郷帳から村名がみえ、田方一千八一九石余・畠方一五石余。


新保村
しんぼむら

[現在地名]小千谷市さくら町・城内じようない三―四丁目

市野宮いちのみや村からの分村で隣接するが境は不分明。天和三年郷帳では高一七三石九斗余。ほかに同所新田高五石二斗余がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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