南森下村(読み)みなみもりもとむら

日本歴史地名大系 「南森下村」の解説

南森下村
みなみもりもとむら

[現在地名]金沢市南森本町みなみもりもとまち湖陽こよう一―二丁目

吉原よしわら村の北、森下川左岸に位置。北陸街道が通る。もとは北森下村と併せて森下(森本とも)・森下村と称したが、江戸時代に入って森下川を境に南北に分れた。寿永二年(一一八三)五月木曾義仲追討のため倶利伽羅くりから山に向かった平維盛率いる平氏軍大手七万余騎が井家いのいえ津播多つはた(現津幡町)から「森本」まで連なったという(「源平盛衰記」巻二九)。正和元年(一三一二)頃の加賀白山本宮の水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「森下ハ」「森下村紺三端大田ヨリ南浅野河」とみえ、白山本宮の水引神人となった紺掻業者が当地におり、北は大田おおた(現津幡町)から南は浅野川にかけての地域を勧進区域としていたことが知られる。毎年同宮に進納する紺染市も三端と他と比較して多いのは、当地が森下川の谷頭平野部に位置する流通上の要衝であり、当地の座が同宮に属する紺掻座のなかで最大のものだったためとみられる。

時衆過去帳(清浄光寺蔵)の遊行一五代尊恵(在位一四一七―二九)に結縁した僧衆に眼阿弥陀仏の名わみえ、その裏に「森本」と記される。寛正―文明頃(一四六〇―八七)とみられる五月九日の綱玉寒室書状(蜷川家文書)は、蜷川親元に宛てて「賀州森本」より送ったもので、当地まで使者を下したことを謝し、詠草三首を添削している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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