日本歴史地名大系 「南部庄」の解説
南部庄
みなべのしよう
南部川下流域を中心とした地に比定され、後三条天皇皇孫女伏見宮守子内親王―鳥羽院皇女五辻宮頌子内親王―高野山(蓮華乗院)へと伝領された荘園で、荘名は「中右記」天仁二年(一一〇九)一〇月二一日条に「南陪庄」とみえる。伏見宮守子内親王領であったことは貞応元年(一二二二)七月一〇日付の南部庄官年貢米起請文案(又続宝簡集)にみえ、熊野別当湛快が下司職となっていたことが知られる。この伏見宮守子内親王領から、五辻宮頌子内親王領への伝領の時期などについてはつまびらかでないが、その後の高野山領への伝領やその後についての史料は豊かになる。
南部庄と高野山の関係を示す史料としては、承安五年(一一七五)六月二四日付の前斎院庁下文(宝簡集)が早く、それによると五辻宮頌子内親王が父鳥羽院の菩提を弔うため高野山に
前記貞応元年の年貢米起請文案によると、当庄の下司は熊野別当家が補されており、伏見宮領の頃の湛快を初見としてその子湛増、さらにその子湛勝王法橋、湛盛播磨別当、快実小松法印と受継がれたが、湛増と湛政の兄弟が下司職を争った時、領家に対する請料二〇〇石の増額を認めた湛増が下司職に補され、それまでの年貢三〇〇石から五〇〇石になったいきさつがわかる。また同起請文案に「右件御年貢次第、五代之間、見米三百斛、色代二百斛、合五百斛内、見米百石ハ、高野山蓮華乗院運上、所残見米二百斛、色代二百斛、斎院御方進済也、此代々所進之状如此」とみえ、五〇〇石の内訳は現米すなわち米そのもので三〇〇石、色代すなわち他の品物での代納が米二〇〇石分となっており、また現米三〇〇石のうち一〇〇石は高野山蓮華乗院へ納入することになって、年貢は蓮華乗院と前斎院家と二口に分けられていたことが知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報