山内村(読み)やまうちむら

日本歴史地名大系 「山内村」の解説

山内村
やまうちむら

[現在地名]茂木町山内

北部は八溝やみぞ山地の山林に囲まれ、南部は那珂川の河岸段丘上にあり、南北に長い。北端の松倉まつくら山から流れ出る八反田はつたんだ川が村中央を南流し、南端で那珂川に合流する。東は那珂郡油河内ゆごうと(現茨城県那珂郡緒川村)に接する常陸との国境、北は那須郡大木須おおぎす村・小木須こぎす(現烏山町)に接する。永正一〇年(一五一三)八月晦日の佐竹義舜宛行状(茂木文書)で、茂木持知に与えられた地に「山内郷并小深郷」がある。

近世はおおむね常陸谷田部藩領。慶安郷帳では田方六〇〇石・畑方七六〇石。同藩内二七ヵ村のうち最も村高が多く、村規模が大きいことから村内は七組に分れ、嘉永二年(一八四九)の各五人組数は、戸越組が四、元古沢組が二、中郷組が八、圷組が一、甲組が六、鼓石組が七、下平組が八の三六組あった(「五人組帳」大貫正広文書)


山内村
さんないむら

[現在地名]軽米町山内

折爪おりづめ岳の北東麓、瀬月内せつきない川流域に位置。南は狄塚えづか村。字上新井田わいだにある新井田にいだ館跡は東西約一三〇メートル・南北約一三〇メートルの単郭式山城で、館主は天正一九年(一五九一)九戸政実の乱に加わって滅びた和田覚左衛門と伝える(「南部根元記」など)正保国絵図に村名がみえ高二五八石余。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳では田二〇五石余・畑二六六石余。天保五年(一八三四)の南部領高辻帳による〆高は田二二六石余・畑四二〇石余。同八年の仮名付帳では枝村として大清水おおしみず村・谷地渡やちわたり村・山口やまぐち村・大沢おおさわ村、雪屋ゆきや(現九戸村)を記載。


山内村
さんないむら

[現在地名]五城目町富津内下山内ふつないしもさんない

富津内川(山内川)右岸の河成平野上にあり、西は五十目ごじゆうめ村、東は富田とみた村・小倉おぐら村に接する。

北部山地に山内采女正が住居したという城跡があり、支郷に荒町あらまち(六郡郡邑記)、小字に大手崎おおてざきの名を残す。城主の菩提寺の円通えんつう寺があり、支郷に門前もんぜん村がある(同書)

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)に「九百九拾六石九斗弐升 さんない村」とあり、太閤蔵入地であった。五十目庄一二ヵ村中、最も石高が多く、天正頃には馬場目ばばめ川谷口付近一帯の中心集落と考えられる。


山内村
やまうちむら

[現在地名]清水町山内

丹生山地の東部に北東から南西に延びる細長い大森おおもり盆地の南西端に位置し、東側山麓と西側山麓に集落がある。北は大森村、西は笹谷ささだに村。古くは志津しづ庄内の地。天文一〇年(一五四一)二月一九日付の南朝寺宛桑原全悦・桑原秀寿寄進状(「越前国名蹟考」所収)に「奉寄進山内村是遠名内山之事」とある。天正一一年(一五八三)四月付越州七庄内宛羽柴秀吉禁制状(賀茂神社文書)にも「山うち」とみえる。

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に高六八七・二三石が記される。


山内村
やまうちむら

[現在地名]能勢町山内

倉垣くらがき村の西、倉垣盆地の南西端にあり、田尻たじり川と大路次おおろじ川の間に位置する。西の逢坂おうさか峠、北の暮坂くれさか峠を越えるといずれも宿野しゆくの村へ至る。口山内くちやまうち奥山内おくやまうちの集落がある。「康平記」康平五年(一〇六二)正月一三日条に「飯二百果、山内御庄」とあり、また正治二年(一二〇〇)正月一〇日の春日祭雑事定文(「猪隈関白記」同日条)にも「一饗(中略)飯二百果、山内御庄」とあり、山内庄は摂関家領として奈良春日社の饗事には飯二〇〇を負担することになっていた。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)には「足利高氏篠村八幡宮陣取之節、能勢郡西郷郷士」とあり、当村の小林氏以下九氏が書上げられている。


山内村
やまうちむら

[現在地名]八女市山内

忠見ただみ村・大籠おおごもり村の東にあり、南部を星野ほしの川が西流する。八女平野の最奥部にあたる。久留米城下および豊後日田に向かう山中さんちゆう街道が通る。北部のじよう(約一八〇メートル)犬尾いぬお城跡があり、川崎氏の居城とされる。同城の麓に三明山明福寺跡がある。文禄四年(一五九五)一二月の上妻郡内知行方目録写(筑紫家文書)に「川崎内山うち村」とみえ、高三四三石余。正保四年(一六四七)の大小道之帳に横道として久留米より山内村まで三里二一町余とある。承応元年(一六五二)星野川で取水するやまノ井堰が造られ、上妻こうづま郡の忠見組・福島組・新庄組、三潴みづま郡の江口組の諸村を潤した。


山内村
やまちむら

[現在地名]沖縄市山内やまうち一―四丁目・山内・山里やまざと・山里一―三丁目・南桃原みなみとうばる一―四丁目

諸見里むるんざとう村の西にあり、西は北谷ちやたん間切桑江くえー(現北谷町)越来ぐいーく間切に属する。絵図郷村帳では北谷間切のうちに山内村がみえる。琉球国高究帳でも北谷間切のうちで高頭九五石余、うち田三七石余・畠五七石余。里積記によれば田畑とも下の村位である。「琉球国由来記」では越来間切に属しており、康熙五年(一六六六)同間切から美里んざとう間切が分離した際に越来間切に編入されたと思われる。


山内村
やまのうちむら

[現在地名]岡山市東山内ひがしやまのうち西山内にしやまのうち

間倉まぐら村の南、足守あしもり川源流地の右岸にあたり、大山往来が通る。天正八年(一五八〇)一〇月、毛利輝元は児玉市允らに兵粮米六、七百俵を調え山内で差出すよう命じている(同月一一日「毛利輝元書状」萩藩閥閲録)。慶長六年(一六〇一)木下家定に山之内村一千四一石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図には山内村とみえ高一千三一石余、足守藩領。


山内村
やまうちむら

[現在地名]南部町山内

南は海、目津崎めづさきを中心にして西は千里せんり浜、東は南部川河口に至る。西は東岩代ひがしいわしろ村、南東は気佐藤けさとう村。「続風土記」に「村の名は村の三面山にて包みたるより起れり」とある。中世には高野山領南部庄の一部であった。承安五年(一一七五)六月二四日付の前斎院庁下文(宝簡集)に「可早寄進於高野山蓮華乗院当御庄内山内村田拾町事」とみえ、五辻宮頌子内親王によって山内村の田一〇町が高野山蓮華乗れんげじよう院の仏餉灯油人供料として寄進されている。

慶長検地高目録では村高五〇二石余。


山内村
やまうちむら

[現在地名]菊鹿町山内

村央を荒平あらひら峠を分水嶺とする内田うちだ川の支流山内川が南流し、東は相良あいら村、西は小坂おさか(現山鹿市)、南は長谷川はせがわ村・上内田かみうちだ村、北は峠を挟んで多久たく(現鹿北町)と接する。近世は山鹿やまが郡中村手永に属した。宝暦二年(一七五二)の中村手永御蔵納手鑑によると下内田村の枝村の一つが独立し山内村となったとあり、元禄国絵図には村名がなく、明和九年(一七七二)の「国誌」には独立村として記載されていることから、この間に独立したと思われる。


山内村
やまのうちむら

[現在地名]村山市山ノ内・ゆき観音郷かんのんごう

富並とみなみ川上流に位置し、東は富並村。山参詣口の一つである。最上氏領から元和八年(一六二二)新庄藩領となり、下谷地しもやち郷に属した。同年の御前帳写によれば、留並の内にこま井村と山内村が記され、山内村は高三七二石余。正保郷帳に山之内村とあり、田方三五八石余・畑方一三石余。新田本村鑑によると、宝永六年(一七〇九)の高二七八石余で、枝郷として大鳥居おおとりい赤倉あかくら・ト小屋ごや升沢ますざわが記される。吉村本村鑑によると、文化元年(一八〇四)の高三五七石余・反別四〇町余で、寛政六年(一七九四)の家数五三・人数三四六、文化九年の家数五六・人数三八八。文政一〇年(一八二七)新庄領総高控では竈数六〇・人数三七六、駄馬二三。


山内村
やまうちむら

[現在地名]長南町山内

水沼みずぬま村の南に位置し、一宮いちのみや川支流の埴生はぶ川が流れる。金谷かなや宮本みやもとなどの地名があり、古屋敷ふるやしきには庁南ちようなん城落城の際武田氏の遺子を伴って逃れた海老沢図書のものとされる墓がある。遺子は七郎氏信で当地に住し、その屋敷・山林などを除地とするよう近在の役人らが嘆願したと伝える。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高三〇九石。元禄郷帳では高五六九石余。寛政五年(一七九三)の村明細帳(片岡家文書)では田三四町余・畑三四町八反余で家数一一一・人数四六三、川堰四・溜井一・地頭林三、筵・茣蓙を作っていた。


山内村
やまうちむら

[現在地名]上中町山内

有田ありだ下タ中したなか集落の北方に位置し、背後に山を負い前面に鳥羽とば川が流れる。中世後期、守護武田氏の時代には、その被官粟屋氏が背後の山頂に城を構えていた。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「五十文 鳥羽山内村」とみえる。


山内村
さんないむら

[現在地名]秋田市山内

あさひ川の中流、仁別にべつ村に至る山道沿いの集落。添川そえかわ村の東北一里。松原補陀寺開山事起に貞和五年(一三四九)「山内邑奥松原之郷」とある。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)によれば太閤蔵入地の一村、文禄元年(一五九二)の秋田実季分限帳(秋田家文書)に山内村・藤倉ふじくら村があげられる。山内村は「やまうち村」とも呼称され(六郡郷村誌略、久保田領郡邑記)菅江真澄の「花の出羽路」には「添河村の山堺を踰え来れば山内やまうち荘也」と記す。


山内村
さんないむら

面積:二〇五・八七平方キロ

平鹿郡東部にあり、北は仙北せんぼく郡六郷町、西は横手市、南は増田町、雄勝おがち郡東成瀬村に隣接、東は奥羽山脈を隔てて岩手県和賀郡湯田ゆだ町に接する。北からささ(六一八メートル)割倉わりくら(七七〇・七メートル)白木しろき(六〇一・六メートル)三森みつもり(一一〇二・二メートル)と続く奥羽山脈の西斜面にあたり、これらの山々に発するまつ川・黒沢くろさわ川・武道ぶどう川が横手川(旭川)に合流して横手市に入る。

おもな耕地・集落はこれらの川の谷間に発達し、平地は水田、山麓および台地は畑である。


山内村
やまうちむら

[現在地名]本荘市石沢いしざわ 山内

石沢郷の中では石沢川の最上流に位置し東南に杉森すぎもり(現由利郡東由利町)、西に柳生やぎゆう村・鳥田目とりため村、西北に大簗おおやな村がある。

元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳では村高六九石四斗八升とあり、宝暦一一年(一七六一)切支丹宗門改に連判した組頭は九名で(石沢郷土誌)、享和二年(一八〇二)には六名(石沢地区郷土史資料)


山内村
やまうちむら

[現在地名]橋本市隅田すだ町山内

平野ひらの村の西、葛城(和泉)山脈中腹の丘陵地にあり、南に岩倉いわくら池がある。建長七年(一二五五)正月一日付の隅田八幡宮朝拝頭人差定(隅田家文書)に「山内」がみえ、永享五年(一四三三)一一月一五日の道妙田地寄進状(隅田八幡神社文書)に「隅田北庄内山内」とあり、中世は隅田庄に属した。慶長検地高目録による村高六七七石余、小物成一・五八二石。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数六八(本役二五・半役五など)、人数二五七、牛二三、馬二、小物成は紙木一束、桑一五束、茶三四斤。宝暦三年(一七五三)より平野村との間で水論があった。


山内村
やまうちむら

[現在地名]朝来町山内

伊由市場いゆういちば村の東にあり、集落は伊由谷いゆうだに川と酒追さけじ川の合流点の西、伊由谷川右岸台地上に発達。村域は広大で、東に続く納座のうざ村や川上かわかみ村を取囲み、村の東端には青倉あおくら(八一〇・五メートル)がそびえる。寛永一六年(一六三九)の知高帳に村名がみえ、高一五〇石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では高一五一石余。氏神の寿賀すが神社は延喜五年(九〇五)に出雲の須賀すが神社の神霊を分祀したと伝える。生野の変の残党で、酒追谷に逃れて自刃した水戸脱藩士小河吉三郎(変名大川藤蔵)の碑が谷の入口にある。


山内村
やまうちむら

[現在地名]新発田市山内

米蔵よねくら村の東南、加治かじ川左岸に位置し、背後に山を負う。会津街道の宿駅で、藩境の口留番所が置かれていた。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)に「山内村中山村火うち共ニ」として二六四石六斗余、同四年の御判物之写(北方文化博物館蔵)に「当秋年貢定之事」として「山内中山」で四斗五升とある。また同一七年の御蔵納同払方帳(新発田市史資料)の五十公野組蔵入のうちに「山内中山村」として一三九石六斗余。


山内村
やまうちむら

[現在地名]豊前市山内

大西おおにし村の南、挟間はさま村の西、岩岳いわたけ川左岸の平地と丘陵地に立地する。江戸時代は小倉藩領。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数一四・人数二〇(うち百姓二・名子二)、牛一・馬一。寛政七年(一七九五)の村々明細帳(友枝文書)によれば免四ツ五分、高七七五石余、反別田四二町一反余・畠七町八反余、家数六六、うち本村二七・鍋倉なべくら三・新村しんむら六・住城すみじよう一二・古川ふるかわ四・初山はつやま七・清涼寺せいりようじ三、人数二八七、牛二六・馬一、薪馬札一・薪歩行札二、箸山はしやま池など池四、嘯吹うそぶき八幡宮、如法ねほう(現黄檗宗)明泉みようせん(現浄土真宗本願寺派)がある。


山内村
やまうちむら

[現在地名]綾部市睦寄むつより町 山内

上林かんばやし川右岸山麓の段丘に位置する。君尾きみのお山を背に東南は有安ありやす村、西は長野ながの村。若狭街道から北に分岐し光明こうみよう寺に至る参道沿いにあり、「丹波負笈録」は「往古より君尾山表道と云、本堂迄谷十丁山八丁、当村より山家へ四里、綾部へ五里、福知山へ八里」と述べる。江戸時代初頭は旗本藤懸氏領、のちに園部藩領。


山内村
やまうちむら

[現在地名]犬飼町山内

くりはた村の南西、柴北しばきた川流域にある。村名は当地方ではヤモチとよぶ。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳に村名がみえ、井田いだ郷に属し、田高一〇八石余・畑高五四石余、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高一五二石余。


山内村
やまうちむら

[現在地名]美浦村山内

山王さんのう村の北東に位置する。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は旗本領で、元禄郷帳の村高は一四一石余。幕末は旗本松波氏が支配した(各村旧高簿)。漁業も行われ、元禄一六年(一七〇三)九月一六日の霞ケ浦四十八津返答口上書(舟串家文書)に「山門村長兵衛」とみえ、享保一一年(一七二六)一一月の霞ケ浦浦方議定書(同文書)にも村名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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