改訂新版 世界大百科事典 「湛増」の意味・わかりやすい解説
湛増 (たんぞう)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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生没年不詳。平安末期から鎌倉幕府成立期にかけて、熊野(くまの)水軍を率いて活躍した熊野新宮別当(しんぐうべっとう)。熊野別当湛快(たんかい)の子。平氏政権下では平氏に加担していたが、源頼朝(よりとも)の挙兵後、形勢が源氏に傾くのを察知し、源氏支持に転じた。1181年(養和1)正月に湛増の従類が、平氏の拠点の一つとなっていた伊勢志摩(いせしま)に来襲、伊勢神宮に乱入し、山田・宇治両郷の人屋を焼失し資財を奪取している。85年(文治1)2月、湛増は源義経(よしつね)に従って四国に渡り戦功があり、上総(かずさ)国(千葉県)畔蒜荘(あびるのしょう)を与えられている。翌86年9月湛増は源頼朝のもとに使者を送り、法印に叙せられた礼物として綾(あや)30端を献じようとしたところ、頼朝から、荘園などは神仏に寄進したものであり、別当・神主などに与えたものではないとして、進物の受取を拒否されている。
[瀬野精一郎]
(櫻井陽子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…経済上でも,白河上皇が90年の御幸に際し田畑100余町を本宮に寄進したのに始まり,1119年(元永2)5ヵ国封戸寄進を経て,大治年間(1126‐31)に3570町の社領を有するという盛大さであった。源平合戦に当たり活躍した別当湛増(たんぞう)の場合も,これら経済力と沿海に養成してあった熊野水軍の力にものを言わせてのことであった。豊臣秀吉が1585年(天正13)紀州平定ののち社領を全部没収したが,1601年(慶長6)和歌山城主浅野幸長は本宮,那智に各300石,新宮に350石の地を寄せ,下って享保年間(1716‐36)将軍徳川吉宗から受けた多額の修理料と諸国勧化許可とにより,三山は地方金融機関としても勢を振るうようになった。…
…三山検校はその後寺門派の修験僧が任ぜられ,これが三山を統轄する最高の頭職となり,別当もその管下に入ることになったが,長快が法橋に叙せられたことは熊野別当の地位を高め,三山信仰の隆盛に伴って別当は多くの荘園を支配し,その権勢は国司,領主をもしのぐようになった。第21代別当湛増は軍略にたけ,水軍を操縦し,1180年(治承4)には源氏に応じて平氏にそむき,また長門壇ノ浦の海戦には熊野党が源氏にくみして大いに活躍した。【鈴木 昭英】。…
※「湛増」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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