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湛増 たんぞう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

湛増
たんぞう

平安時代末期~鎌倉時代初期の僧。熊野新宮別当,湛快の子。熊野水軍を率いて源平合戦 (→治承の内乱 ) に活躍。最初,平清盛に味方したが,源氏の形勢が有利になると,源義経の軍に加勢し,屋島,志度,壇ノ浦に転戦して軍功を立てた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

湛増 たんぞう

1130-1198 平安後期-鎌倉時代の僧。
大治(だいじ)5年生まれ。湛快の子。源頼政・以仁(もちひと)王挙兵のとき,平清盛について勢力をひろげ,元暦(げんりゃく)元年紀伊(きい)熊野山(和歌山県)の別当となる。のち占いで源氏に味方し,2年源義経の呼びかけに応じ,熊野水軍をひきいて屋島,志度,壇ノ浦の戦いで活躍。文治(ぶんじ)3年法印,権大僧都(ごんのだいそうず)。建久9年5月8日死去。69歳。

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朝日日本歴史人物事典の解説

湛増

没年:正治2?(1200)
生年:生年不詳
平安末期・鎌倉初期の僧。熊野第21代別当。第18代別当湛快の子。紀伊国(和歌山県)田辺を本拠地とし,熊野水軍を統率していたと思われる。権別当を経て元暦1(1184)年10月別当。父は平治の乱(1159)で平清盛を助け,姉妹は平忠度に嫁し,平氏方に味方していた。『平家物語』では治承4(1180)年以仁王謀反を平氏方に通報したとし,また田辺の今熊野神社に祈請し,鶏合まで行って占い,ようやく源氏に味方することを決心して水軍を率い,文治1(1185)年2月に屋島の源義経に合流し,平家の士気を喪失させたとするが,実際は,治承4年には弟と戦い謀反を起こし,平家を脅かし始めていたようである。文治1年3月壇の浦の戦にも参加。『延慶本平家物語』には源頼朝の外戚の姨母聟と記されている。文治3年法印。建久6(1195)年5月には上洛した頼朝と対面をしている。建久9年別当を辞したか。

(櫻井陽子)

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世界大百科事典 第2版の解説

たんぞう【湛増】

平安末~鎌倉初期の熊野別当。生没年不詳。平治の乱(1159)に際し平清盛を援けた湛快の子。紀州田辺を根拠とし,父の代官として洛中でも活躍したらしいが,治承・寿永の内乱期には,熊野神社の独自な神国樹立に奔走し,平氏との対立を深めた。やがて源氏に与力し,源義経の屋島攻略(1185年2月)に従軍,また壇ノ浦の戦(同年3月)でも水軍をひきいて加わり,活躍した。《平家物語》巻十一には鶏合せによって源氏への味方を決めたという話がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

湛増
たんぞう

生没年不詳。平安末期から鎌倉幕府成立期にかけて、熊野(くまの)水軍を率いて活躍した熊野新宮別当(しんぐうべっとう)。熊野別当湛快(たんかい)の子。平氏政権下では平氏に加担していたが、源頼朝(よりとも)の挙兵後、形勢が源氏に傾くのを察知し、源氏支持に転じた。1181年(養和1)正月に湛増の従類が、平氏の拠点の一つとなっていた伊勢志摩(いせしま)に来襲、伊勢神宮に乱入し、山田・宇治両郷の人屋を焼失し資財を奪取している。85年(文治1)2月、湛増は源義経(よしつね)に従って四国に渡り戦功があり、上総(かずさ)国(千葉県)畔蒜荘(あびるのしょう)を与えられている。翌86年9月湛増は源頼朝のもとに使者を送り、法印に叙せられた礼物として綾(あや)30端を献じようとしたところ、頼朝から、荘園などは神仏に寄進したものであり、別当・神主などに与えたものではないとして、進物の受取を拒否されている。[瀬野精一郎]

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世界大百科事典内の湛増の言及

【熊野大社】より

…経済上でも,白河上皇が90年の御幸に際し田畑100余町を本宮に寄進したのに始まり,1119年(元永2)5ヵ国封戸寄進を経て,大治年間(1126‐31)に3570町の社領を有するという盛大さであった。源平合戦に当たり活躍した別当湛増(たんぞう)の場合も,これら経済力と沿海に養成してあった熊野水軍の力にものを言わせてのことであった。豊臣秀吉が1585年(天正13)紀州平定ののち社領を全部没収したが,1601年(慶長6)和歌山城主浅野幸長は本宮,那智に各300石,新宮に350石の地を寄せ,下って享保年間(1716‐36)将軍徳川吉宗から受けた多額の修理料と諸国勧化許可とにより,三山は地方金融機関としても勢を振るうようになった。…

【熊野別当】より

…三山検校はその後寺門派の修験僧が任ぜられ,これが三山を統轄する最高の頭職となり,別当もその管下に入ることになったが,長快が法橋に叙せられたことは熊野別当の地位を高め,三山信仰の隆盛に伴って別当は多くの荘園を支配し,その権勢は国司,領主をもしのぐようになった。第21代別当湛増は軍略にたけ,水軍を操縦し,1180年(治承4)には源氏に応じて平氏にそむき,また長門壇ノ浦の海戦には熊野党が源氏にくみして大いに活躍した。【鈴木 昭英】。…

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