原木村(読み)ばらきむら

日本歴史地名大系 「原木村」の解説

原木村
ばらきむら

[現在地名]韮山町原木

狩野かの川右岸沿いに位置し、南北に下田街道が通る。南は四日町よつかまち村。地内にある荒木あらき神社は「延喜式」神名帳に載る田方郡二四座のうちの「荒木アラキノ神社」、「伊豆国神階帳」に載る「正四位上あらきの明神」に比定され、「和名抄」に田方郡茨城むばらき郷、「吾妻鏡」に蕀木の名がみえる。「あらき」「むばらき」が転訛して「ばらき」となったのであろう。「吾妻鏡」治承四年(一一八〇)八月一七日条に載る源頼朝挙兵の記述のなかに「蕀木」を北上して肥田ひた(現函南町)に至るとある。暦応二年(一三三九)四月五日、足利直義円成えんじよう寺に北条ほうじよう五箇郷を寄進しており、原木はそのうちの一郷であった(「足利直義寄進状案」北条寺文書)


原木村
ばらきむら

[現在地名]市川市原木一―四丁目・原木など

高谷こうや村の北東にある。地内を横断する佐倉道の道筋に沿って集落が形成され、南には塩浜が開ける。江戸時代は宝成ほうじよう(現船橋市)(旧高旧領取調帳では高二一石余)を除いて幕府領として推移した(同取調帳など)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえ、元禄一三年(一七〇〇)の下総国各村級分では高二〇三石余。同一五年の検地帳(市川市役所行徳支所蔵)によると、反別は上田二町六反余・中田四町七反余・下田四町六反余・下々田四町八反余・悪地下々田一町一反余、上畑一町一反余・中畑一町四反余・下畑一町余・下々畑三町二反余・萱畑五町七反余、屋敷八反余であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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