下田街道(読み)しもだかいどう

日本歴史地名大系 「下田街道」の解説

下田街道
しもだかいどう

伊豆半島中央部を南北に縦断する街道。三嶋大社の大鳥居を起点に一路南に延び、北条ほうじよう(現韮山町)大仁おおひと(現大仁町)しま(現天城湯ヶ島町)を経て難所の天城あまぎ越から梨本なしもと(現河津町)に下り、さらに小鍋こなべ峠を越えてきたさわ(現下田市)に出て、箕作みのつくり河内こうち(現同上)を通って下田に至る一七里一四町二一歩の行程である(増訂豆州志稿)。途中箕作から分れて藤原ふじわら山越の道もあり、こちらは八町五六歩の近道という。梨本から河津かわづ川に沿って下り、海岸線沿いに下田に至る通称はま道もある。「増訂豆州志稿」に「下田路」とみえ、慶応二年(一八六六)の「雲見神社参詣記」では三島街道と記されるが、地方文書や路傍の道標などには天城道・三島往還・下田往還などとも記される。歴史や文学の舞台にも登場し、紀行文では浦賀奉行小笠原長保が文政七年(一八二四)に旅した「甲申旅日記」、吉田桃樹の旅日記「槃游余録」の寛政四年(一七九二)部分などが有名。現在の下田街道は国道四一四号と一三六号を通行するが、かつての道筋は歴史的にかなり変化している。

伊豆の南北を結ぶ道は古くから存在したのであろうが、古代の国衙や郡衙を結ぶ道を考える必要があろう。その道は三島からほぼ狩野かの川に沿って南下し、湯ヶ島から猫越ねつこ峠を越えて仁科にしな(現西伊豆町)に出て、松崎まつざき(現松崎町)から下賀茂しもがも(現南伊豆町)への道が想定されている(静岡県歴史の道―下田街道)。中世に入ってからの天城越については、現河津町梨本の奥原おくばらから新山にいやま峠を越えて寒天かんてんに下り、さらに古峠ふるとうげを越えたとする説(天城路)があるが、前掲歴史の道は峠を二つ越えることから否定的である。慶長一二年(一六〇七)と推定される戸田藤左衛門宛の大久保長安覚書(国立史料館蔵)には「甘木の道」を造る旨の文書が存在するが、具体的ルートについては不明である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「下田街道」の意味・わかりやすい解説

下田街道
しもだかいどう

静岡県三島市と下田市を結び,天城峠を越え伊豆半島を縦断する街道。延長約 60km。江戸時代からあり,幕末,アメリカ総領事 T.ハリスが下田から江戸へ上るおりに利用。明治中期には改修され,第2次世界大戦前までは最も重要な伊豆半島縦断道路であった。

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