近世の豊臣政権,江戸幕府が諸大名らに命じて作成・提出させた一国単位の絵図。1591年(天正19)豊臣秀吉が禁裏に献納するという名目で,日本全国の国絵図と御前帳(検地帳)を諸大名らに命じて作成・提出させたことに始まる。それは日本全土を国郡制の枠組みによって掌握する手段であり,同時にきたるべき〈唐(から)入り(朝鮮侵略)〉に向けての国内総動員体制づくりの一環であった。〈諸国御前帳 駒井被請取候覚〉(《視聴草》第57冊)などによって,国絵図が実際に徴収されたことは確実だが,現在までのところこの天正の国絵図は発見されていない。徳川家康も天下を掌握すると,秀吉の天正国絵図,御前帳徴収にならって1604年(慶長9)に国絵図,御前帳(ただし検地帳ではなく郷帳)の作成・提出を諸大名らに命じた。以後江戸幕府は何度も国絵図の徴収を行っている。おもなものとして,慶長のほか正保,元禄,天保の国絵図が従来から知られているが,それ以外に,1615年(元和1),38年(寛永15),1769年(明和6)などにも,全国的な国絵図の作成とその徴収がなされていることが判明してきている。また,幕府が諸国に派遣した巡見使や国目付に対しても,国絵図が作成・提出されている。したがって,国絵図は幕藩関係のさまざまな機会に作成され,幕藩制国家支配の不可欠な手段とされていたのである。
各国絵図にほぼ共通する特徴および記載内容は,(1)絵図にふさわしいカラフルな彩色が施されていること,(2)ほとんどが俵形(小判形)をしている村形(むらかた)に,村名とその石高を記していること,(3)郡名と郡高および村数を記していること,(4)郡境線,国境線が引かれ,国境・郡境の確定が意図されていること,(5)道や海路が朱線で示され,各国の主要交通路が把握されていること,(6)城郭の位置などが,古城を含めて重視されていること,(7)名山や古刹,古社などが描き込まれていること,などが挙げられる。かかる諸点について,各段階の国絵図を比較検討すれば,近世における諸国の歴史や地理的発展を探ることができるわけである。
慶長図は,和泉,摂津,越前,加賀,能登,越中,周防,長門,筑前,肥前,肥後,小豆島などが見つかっており,今後さらに発見される可能性が高い。近世初頭の諸国の状況を知るうえで貴重な史料である。元和図は元和偃武(げんなえんぶ)の直後に作成・提出が命じられたが,確実なものはまだ見つかっていない。寛永図は備前と備中の国絵図が現存している。この寛永図は,3代将軍家光が父秀忠の死の直後の1633年に全国に派遣した巡見使の徴収した国絵図が概略的であったので,島原の乱後に改めて作成・提出を命じたものである。しかしこの図も不十分であったので,幕府はそれまでの不備・不統一を克服するために詳細な作成基準をつくり,44年(正保1)に再び国絵図の作成・提出を命じた。それが正保図である。この図によって,縮尺が〈一里六寸〉に統一されるなど,その後の江戸幕府国絵図の様式の基本ができ上がった。それでも,正保図ではまだ中世的な荘名や郷名などが残っていたが,97年(元禄10)の元禄になると,そのような地名は全面的に整理され,国,郡,村という行政単位に統一された。現実に某荘とか某郷と呼ばれていようとも元禄図ではすべて某村と記されたのである。また国境,郡境の境相論(さかいそうろん)についても,正保図では論所として残されたものが多いが,元禄図になると別に境縁図(きようえんず)が作成され,全国的に国境の確定がなされるに至った。元禄図はしたがって,完成された江戸幕府国絵図と言えるだろう。以上の各国絵図は,幕府が諸大名らに命じて作成・提出させたのであるが,1835年(天保6)の天保国絵図は事情が異なる。すなわち幕府は,元禄図を淡彩で薄紙に写したものを短冊型に裁断して諸大名らに渡し,変化した個所に懸紙(かけがみ)をして修正させただけで提出させた。そのあとは,幕府がみずからの負担で天保図を作成したのである。
そのほか近世には,江戸幕府国絵図を下敷きにするなどして,実に多くの各国国絵図が刊行された。それらが,近世における交通の飛躍的発展と出版文化の発達によって可能となったことは言うまでもない。
執筆者:黒田 日出男
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江戸幕府が諸大名に命じて調進させた国ごとの地図。初め1644年(正保1)にこの地図作製の法令が出され、その後、村落や石高(こくだか)の異動を修正するため1696年(元禄9)と1835年(天保6)の2回改訂命令が出て、江戸時代を通じて合計3回つくられた。その年代を冠して、それぞれ正保(しょうほう)、元禄(げんろく)、天保(てんぽう)国絵図とよんでいる。いずれも数年間を費やして全国80余枚の地図が完成した。良質の料紙を用い、2万1600分の1の縮尺により、狩野(かのう)派の御用絵師が極彩色で細密に描いたので、わが国の古地図のうちでもっとも壮大、豪華、美麗な地図ができた。そのほか国絵図の特徴は、内容が正確で信頼性が高いことと、村名や石高を明示した財政地図の性質をもつ点にある。その村名や石高は、姉妹編としてほぼ同時に編集された国ごとの『郷帳(ごうちょう)』と一致する。なお、山、川、道路、一里塚は描かれているが、郡、村の境界や所領関係の記載はない。幕府に献上された国絵図は維新後、明治初期の日本地図作製の参考資料として利用された。「天保国絵図」全部と「元禄国絵図」の一部は国立公文書館に保存されており、その転写、縮写図や、諸藩が調進のためにつくった関連地図類は各地の図書館にも所蔵されている。
[福井 保]
『福井保著『内閣文庫所蔵の国絵図について』(『内閣文庫書誌の研究』所収・1980・青裳堂書店)』
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日本で16~19世紀に作成された国郡単位の絵図。代表的なものは江戸幕府が全国に命じて作成させたものだが,その他,藩が領内支配のために作ったものや,民間に流布した版行図など,近世に多様な展開をみせた。前史としては古代国家により徴収されたとされる国郡の図が考えられるが,古代・中世の原図や写しは現存せず,実態は不明。近世では各時期によって内容が変化するが,基本的には国・郡・村の名称や石高などを書きあげた郷帳と一組のものとされた。山川を骨格とした地形表現のなかに,道・航路などの交通関係の描写と注記,記号化された村・町が記された。寺社も絵画的に描写された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…こうして,関白政権という政治体制を選びとった豊臣秀吉にとっては,古代以来の国郡制は不可欠の地方行政単位であった。1591年(天正19)には禁裏に納めるという名目で日本全国の御前帳(検地帳)と国絵図を徴収し,国郡制を地方支配の単位とする国家支配を確立させた。江戸幕府もまた国郡制を継承した。…
…江戸幕府が国絵図とともに作成・提出させた帳簿。郡ごとに村名とその石高を書き上げ,一国単位でまとめたものである。…
… こうした中世における境の性格・特徴は,近世にも大なり小なり引き継がれていったと思われるが,近世の境を特徴づけるのは,なんといっても国郡制的な行政区分であろうと思われる。豊臣秀吉が叡覧にそなえるという名目で作成・提出を命じた日本全国の御前帳と国絵図などによって,国土の全体が把握され,国郡制的な行政単位によって国内の境が整理されるに至った。江戸幕府もまたそれを継承し,おもなものだけでも慶長・正保・元禄・天保の各時期に国絵図と郷帳を徴収した。…
※「国絵図」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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