古関村(読み)ふるせきむら

日本歴史地名大系 「古関村」の解説

古関村
ふるせきむら

[現在地名]下部町古関

瀬戸せと村の南、西八代台地南部の山間部と、釜額かまひたい川と反木そりき川が合流する地点付近の河岸段丘に立地する。両川は合流して古関川(常葉川上流部)となり南西流する。「武田家日坏帳」によれば永禄四年(一五六一)七月一一日「甲州河内西フツセキ」の土橋八郎左衛門が逆修供養を行っている。慶長古高帳に古関とみえ高七一石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版三郡村高帳では高一九八石余。


古関村
ふるせきむら

[現在地名]上九一色村古関

かけはし村の南東あし川渓谷中流域の山間村。東は鶯宿おうしゆく(現芦川村)、北は右左口うばぐち(現中道町)中道なかみち往還が通り、村名は甲駿国境近くに位置し南方警備の要衝として関所が置かれたことにちなむという(甲斐国志)。慶長古高帳に古関とみえ高九四石余、幕府領。文化(一八〇四―一八)初年の家数二一八・人数八八八、馬八。諸商売免許の鑑札一七五枚を所有。


古関村
ふるせきむら

[現在地名]余目町古関

南野みなみの村の南東にあり、北楯大きただておお堰が西を北流する。開発は慶長一九年(一六一四)で見立役は中山三河守、開発者は長谷部喜右衛門(享保一九年建立の白山神社境内開村記念碑文)伝承によると以前は北東最上川近くにあり、二本木にほんき村、または白山はくさん村と称していた。たびたび洪水にみまわれたため、慶長一七年北楯大堰が完成すると現在地に移り開発したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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