下部町(読み)しもべちよう

日本歴史地名大系 「下部町」の解説

下部町
しもべちよう

面積:一三〇・三四平方キロ(境界未定)

郡の南部に位置し、東は上九一色かみくいしき村、南は静岡県富士宮市および南巨摩郡南部なんぶ町・身延みのぶ町、西は六郷ろくごう町と南巨摩郡中富なかとみ町、北は市川大門いちかわだいもん町・三珠みたま町。北境にはひるヶ岳(一二七九メートル)大平おおひら(一一八八・三メートル)釈迦しやかヶ岳(一二七一・二メートル)が並び、東部から南部は御坂みさか山地西麓の天子てんし山塊のりゆうヶ岳(一四八五メートル)あめヶ岳(一七七一・七メートル)毛無けなし(一九四五・五メートル)などの高山がそびえる。竜ヶ岳の北には富士五湖の一の本栖もとす湖がある。これらの山を源として北部を樋田といだ川・車田くるまだ川などを合せる三沢みさわ川と田原たんばら川が西流、東部・南部の峡谷を反木そりき川・古関ふるせき川・栃代とじろ川・雨河内あめごうち川・下部川が流出し西部の山裾で常葉ときわ川に注ぐ。常葉川は南西流して、南西端の波高島はだかじま富士川に合流する。全体に北東から南西に向かって河谷が開けており、西部は諸河川下流域の氾濫原および富士川東岸に至る平坦地である。しかし面積の八一・五パーセントは山地・林野で、諸河川流域にわずかな耕地が開け集落が散在している。

西部の河岸段丘や台地上には、上之平の宮前うえのたいらのみやまえ遺跡、常葉の五条ごじよう遺跡、三沢のみやまえ遺跡などの縄文時代の遺跡がある。五条遺跡からは縄文中期の土器片および石鏃・石斧などの石器が出土している。古代は八代郡川合かわい(和名抄)に含まれたとみられる。平安時代末、甲斐源氏の分流秋山光朝の三男光季が河内かわうち谷に移住し、常葉に本拠を構えて常葉氏を称したという(甲斐国志)。常葉氏の動向ははっきりしないが、嘉吉三年(一四四三)八月二二日の紀年銘のある西郡鷹尾たかお(現増穂町)棟札銘文にみえる「源朝臣常葉丹後守光泰」は常葉氏の当主であるという(同書)。しかし永禄八年(一五六五)三月、常葉信泰は馬場五郎左衛門尉に滅ぼされたという(同書)。馬場氏は時期は不明だが市之瀬いちのせに居館を構え、戦国期には常葉氏をしのぐ勢力に発展していたと伝え(同書)穴山信君の家臣としてみえる馬場氏と同族である可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報