日本歴史地名大系 「右庄」の解説 右庄みぎのしよう 石川県:加賀市右村右庄現三木(みき)町を中心に橘(たちばな)町・永井(ながい)町・奥谷(おくのや)町から大聖寺瀬越(だいしようじせごえ)町・塩屋(しおや)町を含む地域に比定される。承元四年(一二一〇)九月日の後鳥羽院庁下文(関戸守彦氏所蔵文書)に「以南郷内右庄、為最勝四天王院領」とあり、後鳥羽上皇の近臣葉室宗行が、右庄を上皇の御願寺として創建された最勝四天王(さいしようしてんのう)院(現京都市東山区)に寄進したことがわかる。庄域は南郷(なんごう)郷域に含まれ、四至は「東限熊坂庄、南限越前国堺、西限塩海、北限福田庄」で、東と北を熊坂(くまさか)・福田(ふくだ)両庄に接し、西は海に面していた。この地は元来「助方」なる者の開発地で、宗行の岳父日野兼光に寄進され、兼光はこれを位田として立庄・知行、それが娘(宗行の室)に譲られて宗行の知行地となった。宗行はこれを一括して最勝四天王院に寄進、毎年国絹三〇疋を年貢として納め「一月兵士参人」を勤仕させる条件で、宗行の子孫が預所職を伝領することが承認された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by