吉成村(読み)よしなりむら

日本歴史地名大系 「吉成村」の解説

吉成村
よしなりむら

[現在地名]鳥取市吉成・吉成一―三丁目・吉成南町よしなりみなみまち一―二丁目・かのう一丁目・富安とみやす一―二丁目・興南町こうなんちよう南吉方みなみよしかた二―三丁目

富安村の南、千代川の東側に位置し、智頭ちず街道が通る。街道の左右には一二軒の茶屋が建っていた(因幡志)。集落は街道の東側にあったが、さらに東側に七軒屋しちけんや十軒屋じつけんやと称される支村ができ(同書)、七軒屋は天保五年(一八三四)枝郷として独立して新村と名付けられた。

天文八年(一五三九)一二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那引付(肥塚家文書)に、因幡国のうち「よしなりの田ふちすけさへもん」とみえる。また同一四年二月吉日の同家の檀那村付帳(同文書)にも「いなはよしなり一ゑん」とある。永禄一三年(一五七〇)七月、山名豊国は邑美郡吉成のうち草屋新左衛門尉分一町などを、岡垣次郎左衛門に与えている(同月一三日「山名豊国宛行状」因幡民談記)。慶長一二年(一六〇七)池田長幸は吉成のうち一〇〇石を伊勢神宮に寄進した(伊勢古文書集)。藩政期の拝領高は一千五九〇石余、本免五ツ五分。


吉成村
よしなりむら

[現在地名]徳島市応神町吉成おうじんちようよしなり応神町応神産業団地おうじんちようおうじんさんぎようだんち

中原なかはら村と高房たかぼう(現北島町)の西に位置し、西は東貞方ひがしさだかた村、北は勝瑞しようずい(現藍住町)・高房村。中世は萱島かやしま庄のうち。建仁元年(一二〇一)四月一〇日の預所下文案(紀伊続風土記葛原文書)に「萱島御庄吉成北島住人等」とみえ、吉成と北島きたじま(現北島町)の住人に対し、藤原能村を山城石清水いわしみず八幡宮領萱島西庄下司職に加えて、「□□・北島両郷」の下司職に補任することを伝えている。現香川県白鳥しろとり町の若王子にやくおうじ神社所蔵の応永九年(一四〇二)以降に書写された大般若経奥書に「阿州板東郡萱島庄吉成勢舜」とみえる。

慶長二年(一五九七)の分限帳に吉成とみえ、二七六石余が尾関源左衛門、九二石余が倉地弥右衛門の知行分。


吉成村
よしなりむら

[現在地名]斐川町三絡みつがね

出雲平野南側にある小村。西は下直江しもなおえ村、北は上庄原かみしようばら村、南東は羽根はね村。西・北・東の三方は平坦地で、南は丘陵が突き出ている。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は原前はらのまえ輪・貴船きぶね輪・宮谷みやだに輪・庄原境しようばらさかい輪。慶長七年(一六〇二)の出東郡吉成村御検地帳写では田方一八町四反余・分米二一一石余、畑方一町四反余・分米一一石余、屋敷数一五(うち役屋敷一〇)とある。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高三二九石余、寛文四年(一六六四)の本田高三二一石余、新田高なし。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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