邑美郡
おうみぐん
因幡国の中央部北方にあり、北東は巨濃郡(岩井郡)、南東は法美郡、南は八上郡、西は千代川を隔て高草郡に接し、北は日本海に面する。郡域の大半は久松山系と千代川とに挟まれた南北に細長い地域で、現在の鳥取市の千代川以東の中心部に相当する。北部海岸沿いは鳥取砂丘東部(浜坂砂丘)でその南側に千代川が形成した鳥取平野が広がり、南端は空山・八坂山などのある丘陵部となっている。東部を袋川が北西流して千代川に合流している。
〔古代〕
「和名抄」東急本国郡部は郡名に「於不美」の訓を付す。中世には「上美」と郡名を記す史料もある。延暦三年(七八四)に成立したとされる伊福部臣古志(伊福部家文書)に、その選述者伊福部臣富成は「先考邑美郡大領外正七位下諱公持臣」と記している。また伊福部氏二六代の都牟自臣は「水依評」の督に任じられ、その子の与曾布・与佐理の二人が「今別奉仕邑美郡」と記しているので、延暦頃には邑美郡の郡司に代々伊福部氏が任ぜられていたものと考えられる。奈良時代のものと推定される年未詳の因幡国戸籍断簡(正倉院文書)には伊福部・海部・日下部・神部等の氏名がみられ、神部を邑美郡美和郷とかかわるとする「鳥取県郷土史」の説によれば、戸籍は当郡のものとなろう。「和名抄」には美和・古市・品治・鳥取・邑美の五郷を載せる。郡衙は美和郷にあったとする説が有力である。美和郷内にある「延喜式」神名帳記載の「中臣崇健神社」に比定される同名の神社は、現在でも社殿がなく古墳を遥拝する形式をもち、この形式は大和三輪明神(現奈良県桜井市大神神社)にならったものと推定されている(因幡志)。条里地割は郡内各地で確認されている。
〔中世〕
承元二年(一二〇八)以前に山城石清水八幡宮領滝房庄が成立、その後同領宮永保、主殿寮領国安今島保、鳥取吉方郷などが成立、古代以来の美和郷も中世郷として継承された。鎌倉時代にその原形が成立したとされる「因幡民談記」所収の郡郷保庄記には宮永保・吉成保・久末保・美和郷・滝房・豊田保・品治・吉方保・高橋村・富安保(村)・古市村・鳥取郷・宮成保・稲平村が記される。文和元年(一三五二)以降因幡国を実質的に掌握した山名時氏は、観応の擾乱後の貞治三年(一三六四)因幡守護に任じられ、当郡も山名氏支配下に入った。当郡を本拠とする有力在地領主は室町・戦国期を通じ姿をみせない。永享二年(一四三〇)の願文(熊野郡智大社文書)では、医王山先達松本栄尊の旦那として藤原左衛門守行・藤原治部左衛門家守・某秋岡の国安を在所とする三人が花押を連ね、いずれも同地の地侍層であったと推定される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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