改訂新版 世界大百科事典 「キリシタン禁制」の意味・わかりやすい解説
キリシタン禁制 (キリシタンきんせい)
キリスト教は1549年(天文18)イエズス会士ザビエルによって初めて日本に伝えられたが,教理に包摂されていた愛の精神やポルトガル,スペイン両国と提携したカトリック諸教団(イエズス会,フランシスコ会,アウグスティヌス会,ドミニコ会)の組織的で熱烈かつ巧妙な布教活動によって,同教は戦国争乱の重圧下にあった人々に受容され,教勢は曲折を経て拡大されていった。一方,16世紀後半は,織田信長,豊臣秀吉,徳川家康らの統一権力が相ついで出現した時期で,彼らの武力によって国内の平定は進められ,兵農分離と石高制原理に立脚した集権的封建体制(幕藩体制社会)は形成の途上にあった。キリシタン禁制とは,これらの統一権力が,急成長して伝統宗教とも鋭い対立関係にあったキリスト教を敵性宗教とみなして,自己の体制をいっそう強化するために同教の禁圧と根絶を理由として打ち出した政策,制度と禁圧の実態を総称していう。
信長は旧仏教勢力との対決上キリスト教を保護したが,彼の後継者秀吉は87年(天正15)伴天連(バテレン)追放令を発令し,京坂地方の教会堂を破壊したほか,96年(慶長1)のサン・フェリペ号事件を契機として,長崎で教会関係者を処刑した(二十六聖人の殉教)。家康は1612年禁教令を,翌13年伴天連追放文を発令して宣教師を国外に追放し,これより禁教は江戸幕府によって本格的に遂行された。16年(元和2)2代将軍秀忠はヨーロッパ船の平戸・長崎集中令を発令し,外国人宣教師の変装による潜行下の伝道は困難となった。3代将軍家光は24年(寛永1)スペイン船と断交し,30年《天主実義》等の漢訳書の輸入を禁止し,33年以降鎖国令を発令して日本人の出入国禁止,ヨーロッパ系混血児の国外追放,長崎出島の建設等による南蛮人,ついで紅毛人の隔離策をすすめ,内外のキリスト教組織間の提携を断ち切った。また37-38年の島原の乱を機として,幕府は39年ポルトガルと断交したが,一方,信者に対する弾圧をいっそう強化し,一部地域ですでに実施されていた訴人褒賞制や寺請制度を全国的に制度化した。とくに信者の密度が高かった九州では絵踏制(踏絵)や転(ころび)証文の徴収も実施して禁圧の徹底をはかった。以上の諸施策によって宣教師は一掃され,教会組織はそのほとんどが壊滅したが,信者はなお各地に残存した。それらのうち肥前(1657),豊後(1660-82),尾張(1661-67)における〈崩れ〉はいずれも200~1000人余の刑死者を出し著名である。すでに幕府は64年(寛文4)公私領の支配の別に専任役人の設置を令達していたが,さらに71年〈百姓一軒〉ごとの宗門人別改を命じ,その結果を各領主に一紙証文で報告させる宗門改体制を確立した。その後幕府は74年(延宝2)告訴の最高額を銀500枚と定め,87年(貞享4)には類族令を布達して信者の子孫を類族帳に登録する制度を定めた。しかしこうした厳重な改めの体制下においても,潜伏キリシタンがなお存続した。その信仰は多分に神仏や土俗信仰が混入し,なかば混成宗教と化していたが,幕末ペリーの来航によって1854年(安政1)鎖国制が崩壊し,宣教師が来日すると,その一部が67年(慶応3)肥前浦上で発覚し検挙された(浦上四番崩れ)。浦上問題を引き継いだ明治新政府も神道国教政策の下に禁教策をとり,68年(明治1)〈キリシタン邪宗門〉の禁制を出し,翌年3400人余の浦上信者を各地に配流したが,ヨーロッパ列強の圧力もあって,71年宗門改を廃止し,73年禁制の高札撤去と浦上信者釈放を断行した。ここにキリシタン禁制は終息した。
執筆者:清水 紘一
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