吉本町(読み)よしもとまち

日本歴史地名大系 「吉本町」の解説

吉本町
よしもとまち

[現在地名]竜北町吉本

吉本村から分れた村で、下益城しもましき小川おがわ町に隣接して古くから町屋を形成し、「小川年代記」によると、古くは鞍楠くらぐす町とよばれていたという。検地帳は現存しないが、肥後豊後検地諸帳目録(県立図書館蔵)の「慶長年度不詳年間検地帳」の項に「吉本町一冊」とみえる。東は西吉本にしよしもと村、西は南小川村(現小川町)井手口いでぐち集落と境している。薩摩街道が南北に走り、種山たねやま(現東陽村)に通ずる種山往還の起点にもなっていた。種山手永受の「養福庵磧」は、今古閑いまこがの地先を杭木・土俵をもって塞き止め、三吉本村養水として種山往還の起点のところで南小川村井手口懸りに三分の一を分水し、他の養水は約一〇〇町歩の水田を灌漑していた。

宿場町として繁栄し、寛永一五年(一六三八)には地子赦免(宅地の免税)の特典を与えられていた。小川町加藤清正によって六斎市が許可されていたという。「小川年代記」に「清正公八代へ御通りの時、別当菅野甚儀以書付、市御立て可被下候由を申上候、月に六斎被仰付候、其後、吉本町より市御立可被下候由申上候、小川町六斎の市、二度可遣由被仰候、夫に付、十日、二十日遣れ申候、依之、初市には吉本町年寄衆、小川町に参り、同処にゑびすをいわい仕候」とあるように、その後吉本町では毎月一〇日・二〇日を市日と定めた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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